本学の芸術文化学科が開設された1999年から2007年まで同学科の教授を務められた名誉教授の小谷育弘先生。2007年12月15日に行われた小谷先生の最終講義「ヒトの行く末と、デザインの正体」では、専門領域であるデザインとの出会いから芸術文化学科での講義、そしてデザインについて考え続けた末にたどり着いた「デザインとは一体何か」という疑問に至るまで、ご自身の半生と思考が語られました。今回はその様子を収録した同名の冊子を再編集し、講義の一部を紹介します。

新聞で目にした「デザイン」の文字

私は今日まで半世紀にわたって、デザインとは何かを考えてきたのですが、今日はその出発点から終着点に至る思考プロセスについて話してみたいと思います。

実は、私は大阪の出身でして、中学校から高校は大阪で過ごしました。高校が進学校だったので、ほとんどの人が一般大学志望でした。自分は一般大学ではないと考えて迷っていた時に、ふと新聞の紙面で、「デザイン」という文字を見つけたのです。当時「デザイン」という言葉は、ほとんど社会で使用されてなく、とても新鮮に感じました。そのときには、デザインとは一体、何をすることなのか全く解らなかった。しかし、何か自分の未来を予見できるような感じがしたものですから、その道を、選択したわけです。そこで、デザインが学べる学校について考えていたときに、たまたま、「美術手帖」か「みずゑ」に、武蔵野美術学校デザイン科の広告があった。それで、決心しました。高校時代に美術部にいたわけでもないし、美術に関心があったわけでもないです。だから、予備校も研究所も、東京藝大の存在すら全く知らなかったのです。それで、入試の数ヶ月前にポスターカラーを買って、我流で受験訓練をやって、いきなり受験したわけです。

これは、50年前、1957年です。武蔵野美術学校入学式の記念写真ですが、吉祥寺の校舎です。ここは狭い敷地で、バックに写っている、4階立ての小さなアパートのような建物が唯一コンクリート建ての建物でした。で、前列に創設者の田中誠二理事長の他に日本画、彫刻、デザインの先生が写っておられます。私は前から3列目の左から2番目の学生服を着て写ってます。学生服を着ている人が数人いますが、そういう人は、なにも分からずに来ている人で、研究所や予備校からの受験者は、ジャケットとかセーターを着て、とてもなれた感じでリラックスして写ってます。とにかく、50年前の吉祥寺駅には、まだ月見草が咲いていて、もちろん中央線も路面を走っていましたし、改札を出るといきなりケヤキの木があって住宅街という、そういう時代でした。

どうにか入学は出来ましたが、デザイン科で、いったい何を勉強するのかというと、ほとんど日本画と同じように筆の使い方を実習しました。面相筆というのがありまして、細い線を引くのに使うものです。細い線を引くのに今のようなパソコンなどはありませんから筆を使って、いかに細く、綺麗な線を描けることが、デザイナーになるための、大事なスキルだったのです。文字を正しく書くレタリングの授業と、アメリカのデザイン状況を紹介してもらうことが、学校で教わったことです。当時のデザイナーの仕事というのは技術が重要視されていて、当時の電通にはまだ、クリエイティブという言葉はなくて、宣伝技術局といっていた時代でして、制作技術がデザイン教育の主流でした。有名な話ですが、1951年、松下幸之助がアメリカに視察に行って、帰国後「これからはデザインの時代やで」と宣言、すぐに松下電器には意匠課が出来て、ムサビの名誉教授真野善一先生が着任されます。当時、日本にデザイン概念は薄く、日本の工業製品は、外国製品をコピーして売る。安かろう悪るかろうの代名詞であり、国際社会から酷評されていました。外務省が世界中からクレームを受けるに至って、グッドデザイン選定制度、いまのグッドデザイン賞が生まれたのです。当時は未だ、見た目がかっこ良くて新しいという単純な評価だったような気がします。1958年に初めて、通産省、今の経済産業省にデザイン課が設置されたのです。

知名度ゼロの武蔵野美術学校デザイン科

私は1960年に卒業しましたが、当時、武蔵野美術学校デザイン科の知名度は全くありませんでした。美術科の知名度はありましたが、デザイン科の知名度は0に等しかったわけです。非常に就職も難しい時代で学校は全く頼りに出来ず、とにかく自分を自分でPRすること。マネジメントの能力がないと、就職が難しい時代でした。一番いい方法は、あらゆるコンクールに入賞して知名度を上げることが有効な手段だったのです。ですから、私も、ほとんどのコンクールに挑戦して、知名度を上げる努力をしました。

当時、デザイン界への一番確かな登竜門となる日本宣伝美術会がありまして、日宣美展という公募コンクールが1953年から始まりました。日宣美展で入賞することは、国家試験に受かるような感じでした。当時のメディアは、まだテレビも始まったばかりで、唯一、新聞が大きく取り上げました。だから日宣美賞と芥川・直木賞はだいたい同じような扱いで名前を載っけてくれました。だから、この日宣美展をめざしてデザイン学生は必死になって受賞のノウハウを徹底的に研究しました。だいたい全国から6000人くらいが応募します。日宣美賞、特賞、奨励賞あわせて、10名くらいでしたから、非常に狭き門でした。
本当は学校から学生は応募禁止の、おふれが出ていたのですが、そんなこと守っていられない状況でした。

こっそり3年の時から始めましたが、幸い4年になって特選を受賞しました。これはその当時の作品です。3人の合作で、柴永君と広瀬君、2人は1年後輩です。7点のシリーズで、テーマは日本の国の歳入歳出の視覚化です。日本の家計簿を情報開示するために、ダイアグラムデザインで展開してみようということで、毎日霞ヶ関の諸官庁に通って趣旨を説明し、担当者からデータを得ることを繰り返しました。当時はまだ電子計算機もありませんし、パソコンもありません。そして、コピー機もないし、拡大機もないので、全部手でやらなければいけない。制作に大変な苦労がありました。生まれて初めて円形脱毛症になりました。
あれほど集中して仕事をしたのは生まれて初めてでしたが、1年がかりで7点のシリーズをつくりました。

動き出した1960年

とにかく、世に出るためには、日宣美展という登竜門を突破する必要がありましたので、学校にも行かず徹底的に研究したわけです。いよいよ1960年という時代が動き始め、柏木博さんも何かに書かれていましたが、まさに明治維新のように価値観が激変していきました。まずは、安保闘争から始まり、世界デザイン会議、東京オリンピックがあり、新幹線が走り、東名高速道路、首都高が建設されたのです。そして1950年代後半から60年代に、地方から都市へ、2000万人くらいの人が労働力として移動しました。有名な上野駅には毎日何本も集団就職の中学生を乗せた列車が到着していました。

日本は農業社会から工業社会に産業構造が大きく変わり、都市部へ多くの労働者が集まった。この時代から地方の過疎と格差は少しずつ、進んでいたわけです。そして、家電メーカーが躍起になって体力をつけるための販売活動を始めました。ご存知のように三種の神器と言われた、冷蔵庫/洗濯機/テレビがどんどんと売れて、メーカーは少しずつ事業拡大していきました。当時は池田内閣で所得倍増をスローガンに、高度経済成長政策を行いました。政治によって暗かった世相が、少しずつ変化して、明るい社会を夢見ることが出来るようになっていきました。そして、電化製品が一つ売れると、それが次の生産と消費を生み出すという消費経済の連鎖的な動きが、今までの生活構造を一変させていったわけです。生活様式や価値観がガラッと変わったという意味で、まさしく明治維新であったと思います。

そのようにして、初めて大衆というマスが意識されるようになりました。それは、まず消費文化の近代化であり、日本の場合は百貨店という文化装置から始まったと考えています。江戸時代、日本橋に大きな越後屋という三井グループの元祖店がありました。それが三井呉服店になって、日比翁助という人物が血のにじむような努力を重ねて、三越という百貨店をつくりあげたわけです。三越は、ただモノを売ってきただけではなく、文展に対立する院展を支援して、その後、呉服部が美術部になり、大きな美術展のキュレーションを行い、日本の美術界を主動してきたという意味では、芸術文化の近代化にも大きな役割を果たしてきたと言えます。

そのように当時の百貨店は、まさしく庶民の夢の空間でした。そして、贅沢の民主化が日本で始まったのです。今のような外国ブランドの集合場所ではなくて、ミニサイズの万博というにふさわしい、あらゆるモノが1960年当時のデパートにはありました。棺桶と墓石、それ以外はほとんど揃っていました。僕はムサビに入ってから社会学的な関心が生じて、卒業したら百貨店の仕事をしてみようと考えていましたので、伊勢丹百貨店の仕事をするようになったのです。伊勢丹は、新しいデパートでした。既に日本には、三越や高島屋という老舗があり、業界大手のイメージ展開をすっかりと定着させていました。そこで伊勢丹は、どうしても新しい時代の空気をデザインする必要がありました。そのために明るく、若々しいイメージ構築に挑戦していきました。利益とは差異から生まれるものです。

卒業して2年くらい経った頃、イラストレーターの毛利彰さんと仕事をすることになりました。デッサンの天才と言われた人で、どんな材質でも描き分ける、卓越した表現力の人です。彼とは11年間、一緒に仕事しました。

他のデパートのイメージとは徹底的に差別化を図り、今までにないものを、次々と創り出していったわけです。さっき言いましたように、60年代というのは、いろんなものが急速に動いていた時代ですから、新しいイメージをどんどん受け入れる社会基盤は十分にあったかと思います。このようにして、戦後の日本の経済発展を支えてきたのはデザイナーの仕事によるところが非常に大きかったと思います。それは企業の経済活動を美的な側面から支援するという仕事でした。戦後の資本主義経済発展過程で成立していった商業デザイナーという職業は、特にアメリカと日本が特化していたかと思います。当然、当時のグラフィックデザイナーは、このような広告の仕事が中心でしたのでマルチタレント的な能力を要求された時代でもありました。

僕はゲイブン(芸術文化学科)でずっと、ムシの目・トリの目・ジブンの目というふうに多角的な視野を持ってほしいと言ってきました。人の意識がどこにあるのか、生活者のニーズがなんなのか、そういうことを自分の生活周辺から絶え間なく感知する必要があります。だからまず、小さなものを見逃さないムシの目という視点が重要だと考えているのです。

1960年当時はアメリカから、映画や雑誌、あるいはテレビドラマがどんどんと入ってきましたし、70年代に入るとファーストフードという食文化も入ってきて、急速に日本はアメリカ文化を吸収し、便利なライフスタイルに変わっていったのです。

それは29歳の時でしたが、当時のデザイン科主任教授原弘先生にちょっと手伝ってくれないかと声をかけていただいて、まだ吉祥寺校でしたが、非常勤講師として週に1回か2回行くようになりました。その頃、大阪では万博という大イベントが行われていて、日本人は益々明るい未来社会を信じるようになっていたのです。

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小谷育弘

1937年生まれ。1957年武蔵野美術学校本科デザイン科商業デザイン専攻入学、61年卒業。83年まで主に伊勢丹、三井物産、コーセーなどの企業広告を担当、準朝日広告賞はじめ受賞33回。本学では68年より産業デザイン学科(現 視覚伝達デザイン学科)非常勤講師、82年に短期大学部デザイン科グラフィックデザイン専攻の教授に着任、99年より2007年まで造形学部芸術文化学科教授。武蔵野美術大学名誉教授。