1990年4月19日、吉田直哉先生が映像学科1期生に向けておこなった「映像原論」の第1回目の講義は、まさに映像学科の幕開けとも言うべき授業です。
ご遺族の許可を得て、このたび「MAU2029」のために、この講義の音声データのテキスト化を黒澤誠人先生(映像学科非常勤講師)にお願いしました。

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「映像」という言葉の定義

それでは、まず「映像」の定義から考えてみようとすると実に難しくて、映像学科というのはもっと早くできてよかったのではと皆に言われますけど、映像という言葉が定着し始めたのは実は最近なのですね。

例えば1975年、今から15年前にテレビの現場で書かれた論文を調べてみると、映像という言葉はほとんど使われていない。私が働いていたテレビの現場でも、口語として映像という言葉を使うと、気障だと笑われるような感じで、何と言っていたかというと「え」と言っていました。音のほうを音声と呼ぶことはあっても「音声に対して映像はどうする」というような使いかたはまったくしなかった、ただ「え」と言っていたわけです。

当時、私はそのことを不思議に思い、「映像」という言葉がいつから使われているのかを書いたことがありました(註1)。その頃の辞書の定義はこうなっています。

光線の屈折または反射によってうつし出された物体の像。
岩波書店『広辞苑』(第二版補訂版)

光線により生ずる像。
新潮社『新潮国語辞典』

eizo 映像 n.a reflection ; a reflex.
研究社『NEW JAPANESE-ENGLISH DICTIONARY』

ちなみに平凡社『世界大百科事典』には記載がありません。これらが「映像」の正確な定義になるかどうか。おそらく今の辞書には納得のいく記述があると思うので、それは皆さんで調べてみてください。それでは15年前の辞書のどこに「映像」という言葉の定義が載っていたかというと、イメージという外来語の説明の中に載っている。広辞苑では、

イメージ[image] ①心の中に思いうかべる像。心象。②姿。象。映像。

と初めて出てきます。このことから「映像」という言葉は、もともとイメージの訳語であったということが言えるのですが、英語のイメージよりは、フランス語のイマージュのほうが正確なのだろうと思います。フランス語から英語になって、それから、心の中に思い浮かべる像というようになってきたのだろうと思います。

ですから映像学科の英語名をどうするかという時にも随分議論がありまして、本当はまだ正確に決定はしていないのです。今のところ、斎藤嘉博先生がアメリカのMITとも相談した結果、《Department of Imaging Arts and Sciences》が推薦されている。もうひとつの候補として、《Department of Imagineering》も割とかっこいいからどうだと言われています。これはディズニーの会社名にもあり、どちらかというと映像工学というような造語ですが、皆さんはかっこいいと思うほうを使えばいいのではないかと思います。

皆さんの中で育っていく映像の定義

それではつぎに、日本の文学で「映像」という言葉を最初に使ったのは何だったのだろうかと。僕一人で調べたので、まったく不完全でして、皆さんにも調べてみてもらいたいのですが、おそらく大岡昇平の『俘虜記』だろうと思います(註2)。

戦後すぐに書かれた『俘虜記』は、大岡さんがフィリピン戦線で部隊とはぐれて、結局は捕虜になるのですが、それまでのいきさつを書いています。たった一人で食べるものもほとんどなく、立ち上がる気力もなく、取り残されている時にアメリカ兵のグループに遭遇する。アメリカ兵はこちらに気づいておらず、こちらは鉄砲を撃てる状態にあり撃とうと思えば撃てたのだが、なぜ撃たなかったのか。延々と自らの心理描写をしているところに「映像」という言葉が現れます。自分の記憶に残ったアメリカ兵の映像を分析しながら書いているのですが、

それはまず彼の顔のもつ一種の美にたいする感嘆であった。それは白い皮膚と鮮やかな赤の対照、その他われわれの人種にはない要素から成りたつ、平凡ではあるが否定することのできない美の一つの型であって、真珠湾以来私のほとんど見る機会のなかったものであるだけ、その突然の出現には一種の新鮮さがあった。

と、真っ白な皮膚とバラ色の頬をした若すぎるアメリカ兵であったために撃たなかったのではないかといった分析があり、

人類愛から射たなかったことを私は信じない。しかし私がこの若い兵士を見て、私の個人的理由によって彼を愛着したために、射ちたくないと感じたことはこれを信じる。
(中略)
私は事前の決意がこのときの一連の私の心理に痕跡をとどめていないため、それが私の心と行為をみちびいたということは認めがたい。しかし偏在的な父親の感情が私に射つことを禁じたという仮定は、そのとき実際それを感じた記憶が少しもないにもかかわらず、それが私の映像の記憶にのこるある色合と、その後私をおとずれた一つの観念を説明するという理由で、これを信ぜざるを得ないのである。

という文章の中に映像という言葉が現れるのが、日本の文学で使われた最初ではないかと思います。当時、「映像」という言葉は日本語としては非常に珍しかった。大岡さんはフランス文学者で、フランス語に堪能でありましたから、イマージュという言葉をそのまま日本語に置きかえて、フランス語のイマージュの意味合いで書いたのだろうと思います。

『俘虜記』が書かれてから40年以上経ち、もはや映像という言葉はちっとも珍しくなくなりました。今、日本の社会から映像だけを取り出して論じよ、と言われても絶対に取り出せない。それはもう言葉や音楽、あらゆるものとごちゃ混ぜになって、社会の血であり肉になっているからです。ヴェニスの商人のように、「肉1ポンドを切り取ってもよろしい。しかし血を流してはならない」と言われるのと同じで、「映像を論じてもよろしい。しかし他のものを混ぜてはいけない」と言われたら何も言えなくなるのと同じような状況になっていると思います。

ですから、「映像」の定義というのも百人百様であるはずですし、映像学科の先生によっても各人各様に違うと思いますし、皆さんの中で育っていく映像の定義も各人各様であっていいと思います。本来そういうものだろうと。ただ、いろんなかたちで、いろんなアングルから映像というものを論じていかなければならないと思うのです。

映像学科2期生をむかえる入学式の懇親会(1991年4月)

映像は現実の割符である

それで、映像にはいろいろな機能がありますが、ひとつは図像、イコン。つぎに現実との関係での索引、検索。それから象徴、シンボルという3つ。これはそのまま記号論の機能であるわけで、ですから今、言語学における記号論を映像に援用して論じている人がいっぱいいます。そういう本を読むと頭が割れるほど小難しく書いてあって、結局何が何だかわからなくなるというようなことがあります。

司馬遼太郎さんは、「象徴」という言葉はわけがわからなすぎるから、「割符(わりふ)」と訳したほうがいいのではないかと言っています。割符は札を真っぷたつに割って、合わせるとひとつになるものを暗号や通行証にした昔の身分証ですが、映像は現実の割符であると、もちろんそれだけではありませんが、言えると思います。映像と現実との関係にはひとつには割符という感じがある。

現実と映像との距離

さらにややこしい言語学の言葉で意味するものと意味されるものというものがあって、フランス語で「シニフィアン」と「シニフィエ」と言います。映像論の本を読み始めると必ずこういうのにぶつかってやめたくなると思いますが、この記号論的な言葉を映像に当てはめて論じていて、この場合、映像が意味するものであり意味されるものは現実である。あるいは内容である。

簡単に喩えると、交通信号の「赤」は意味するもので、意味されるものは「止まれ」である。映像で私を映したら、映像は意味するものであり、意味されるものは吉田という人間であるというような関係がある。映像の本を読むとこういった方法で論じている人が多いので、その場合にはできるだけやさしく考えて、交通信号のことだなと思えばいいのではないかと思います。

たしかに意味するものと意味されるものの問題は映像にもあって、例えば竹取物語を映画化しようとすると、かぐや姫をキャスティングしなければなりません。誰もが満足するキャスティングがあるはずなく、かぐや姫はあんなに丸い顔じゃないとか、あんなに目が大きくないとか、もっと痩せているはずといった不満が必ず出てくる。そのためにキャスティングされた沢口靖子さんは不幸な目に遭ったのですが、なぜこういうことが起こるかというと、この場合の沢口靖子さんは意味するもので、意味されるものがかぐや姫だった。

この間に大きな乖離があったために映画の評判が良くなかったということになるのですが、あの映画に限らず、どんな場合でも小説を映像化しようとするとこの問題が起こり得ます。なぜなら小説は意味するものと意味されるものとの距離が遠く想像力に訴えかけるものであり、映像はその逆で、メリットは即物的であることであり、意味するものと意味されるものとの距離が近いからです。

入学式の懇親会での映像学科教師陣(1991年4月)

言葉と映像の違い

かつて三島由紀夫は、今までで小説に描かれた一番の美人は誰かという質問にたいして、こんなにやさしい質問はない。文章における小説第一の美人というのは、あなたが小説を書いて「彼女は古今東西の小説のなかに現れた女性のなかで第一の美人であった」と書けばそれでいい、とこたえます。

彼は続けて、そこが劇や映画と小説の違うところで、それはまた小説と歴史の違うところで、歴史において第一の美人であったという場合には裏づけがなければならないが、小説は小さな宇宙であるから、その描写だけで成り立つのだ。映画、テレビといった映像作品もそうはいかない。役者を選べば、その役者でしかない。オードリー・ヘップバーンを使おうがグレタ・ガルボを使おうが本人でしかないので、映画のスターシステムというものが生まれる余地もそこにあるのだ。メリットとデメリットが表裏一体となって存在するのだ、と三島は言うのです。

小説はいろんなふうに言葉で描写しますが、「彼女は目が2つあって鼻がひとつあって、口がひとつあった」と書いたら、ユーモア小説でもない限りばかげた描写になってしまいます。一方で「彼女の眼は美しかった。鼻は形がよく、小鼻がすぼんでゐるのが貧しさうな感じを與へたが、それがえも言はれぬ清らかな、つつましさを感じさせた。小さめな口からは子供つぽい小さく並んだ形のよい健康な歯がのぞいてゐた(三島由紀夫『文章讀本』中央公論社、1959年)」というような描写をすると、何となくわかったような気がするけれど、その顔を具体的に思い描いてみようとすると、できないということになる。

小説家には2つのタイプがあり、スタンダールは『ヴァニナ・ヴァニニ』という小説でただ1行「彼女はローマ第一の美人であった」と描写したことで有名です。その逆で、バルザックは『モデスト・ミニオン』という小説で延々と5頁ぐらいにわたって、

こふのつるの羽のやうに軽く、イギリス風に捲き毛にしたその髪の下の額は、それこそ清らかな恰好をしてゐるので、コンパスで線を引いたかと思はれるばかりで、思想の光りでかがやいてはゐるが、いつもつつしみ深く、静けさの極平穏なほどである。とはいふが、いつどこで、これ以上に淡泊な、これほど透明な的確さをもつた額を見ることができただらう。それには、真珠のやうに、つやがあるやうに思はれる。灰色がかった青の、子供の眼のやうに澄んだ兩の眼は、弓なりの眉毛の線に調和して、子供らしいいたづら気と無邪気さをすつかり見せてゐた。
(中略)
かういふ才智にとんだあどけなさは、その上なほ、眼のまはりやそちこちのくまや、
こめかみの、かういふ繊細な肌色にかぎつて見られる、青く網目の入った…(寺田透訳)

といった感じで描写していますが、いくら読んでも具体的なイメージは浮かばないのです。これが映像であれば一目でわかるのですが、今度は逆にオードリー・ヘップバーンがキャスティングされれば役を演じるオードリー・ヘップバーンでしかなく、バルザックが描いたモデスト・ミニオンという女主人公そのものではないというのが、映像のメリットでありデメリットであるのです(註3)。

クレショフの実験への疑問

今日は前説ですから、いろんなことを言いますが、カットとカットをつなぐ編集のモンタージュということについて、ロシアのレフ・クレショフという監督がおこなった有名な実験があります。

イワン・モジューヒンという凡庸な俳優のぼーっと見ているような顔のクローズアップを使い、テーブルの上のスープの皿のアップの次に顔のアップをつなぐ。第2に地面に横たわっている仰向けの男の死体のカットの次に、やはりモジューヒンの顔をつなぐ。第3にソファーに寝そべる半裸の女性のカットの次に、またモジューヒンのカットをつなぐということをして上映したところ、そのそれぞれが飢えと苦悩と欲望という感情を見事に表現していると観客に称賛されたといったものでした。

モジューヒンは名優であると讃えられたのですが、実際は何も考えていない顔をつないだだけだった。それからモンタージュというのはいい加減だとか、映像の中の演技は監督がつくるものだ、というような誤解が生まれたのですが、本当はそんなに簡単なものではなくて、演技はどちらかがつくるものでもなく、モンタージュがうまくいく例も限られていると思います。

その上で、クレショフの実験から半世紀以上経ってからの作品ですが、非常に問題提起的な例をひとつ映してみたいと思います。『2001年宇宙の旅』です(註4)。

[録音終了]

註1:『放送学研究』(日本放送協会・総合放送文化研究所編、1975年3月号)に寄稿した論考「放送がつくった『映像』の世界 ―その反転視的考察―」を指しており、この論考には吉田が講義冒頭で触れた古代から続く映像への願望への言及もある。そこで吉田は、過去の人々の多様なイメージの表象と比較して、情報伝達に限ったテレビ放送の使われ方に対して懸念を表明している。のちに吉田はこの論考を書き改め、「映像の過去と現在」として著書『私のなかのテレビ』(朝日新聞社、1977年)に収録した。

註2:日本文学における映像という言葉の初出について、この講義では大岡昇平『俘虜記』(創元社、1948年)としているが、吉田はその後も調査を進め、のちに発行された著書『脳内イメージと映像』(文藝春秋、1998年)のp.30-33では、雑誌『我等』(我等社)の1922年1月号に掲載された内田百閒の随筆「映像」を初出として紹介している。『脳内イメージと映像』には、映像という言葉の初出の他にも講義で触れた多くのトピックが内容を更新して言及されている。1994年に吉田は食道癌を患い、思い半ばで教育の現場を離れることになったが、その後も精力的に思索を続けていたことがうかがえる。

註3:吉田は著書『脳内イメージと映像』「第三章 言葉との関係」(p.59-78)でも、より整理されたかたちで言葉と映像の違いを書き記している。小説の映画化の際に性質の異なるメディアが同じ物語をあつかうことで、人々がメディアの役割を同一視してしまう問題を指摘し、メディアの性質に即した活用の妥当性を解説している。

註4:吉田はレフ・クレショフによる実験の結果に疑問を抱いており、著書『脳内イメージと映像』「第二章 現実との関係」(p.42-58)にて、この実験の再現を映像学科の学生60名とともにおこなったエピソードを紹介している。
「俳優の顔が変化したと思った学生は、六十人中誰ひとりいませんでした。みんな、同じショットのくりかえしだとすぐ気づき、演技に感心する者もなければ、全体の流れに注目する者も皆無だったのです」と学生の反応に触れたのちに、吉田は、特定の人物の姿かたちといった個別性を描写するのが映像の特性であり、その個別性に対して観客は「何のスープだろうとか、事故か殺人か」といった即物的な反応をすることが一般的で、飢えや苦悩といった抽象概念をただちに心に浮かべたとは考えられないと指摘している。
同章で吉田は「モンタージュは、概念をつなぐものでは決してない。モンタージュは、時間をつなぐものなのだ」というアンドレイ・タルコフスキーの言葉を引用し、効果的に時間をつないだモンタージュの例として、スタンリー・キューブリック監督による『2001年宇宙の旅』(1968年)の有名な場面(猿人が空に放りあげた骨から宇宙空間をゆく軌道衛星へのつなぎ)を取り上げている。

吉田直哉

1931年東京生まれ。1953年東京大学文学部西洋哲学科卒業、日本放送協会(以下、NHK)入局。ディレクターとして日本初のドキュメンタリー・シリーズ『日本の素顔』(1957年)、大河ドラマ『太閤記』(1965年)、『源義経』(1966年)、海外取材番組『明治百年』(1968年)、NHK放送開始50周年記念番組『未来への遺産』(1974-75年)、NHK特集『21世紀は警告する』(1984-85年)、NHK特集『ミツコ 二つの世紀末』(1987年)、NHKスペシャル『太郎の国の物語』(1989年)などを手がける。1990年NHK退職後、武蔵野美術大学映像学科教授に着任し、《全方位的な映像教育》という学科理念の形成をはじめ、学科の新設に深く携わる。癌を患い、1998年退任。著書に『テレビ、その余白の思想』(文泉、1973年)、『私のなかのテレビ』(朝日新聞社、1977年)、『癌細胞はこう語った』(文藝春秋、1992年)、『脳内イメージと映像』(文藝春秋、1998年)、『敗戦野菊をわたる風』(筑摩書房、2001年)、『発想の現場から—テレビ50年 25の符丁』(文藝春秋、2002年)、『映像とは何だろうか』(岩波書店、2003年)などがある。2008年逝去。