武蔵野美術大学は、多くの民俗学や民具の研究者を輩出してきた。成城大学で教鞭をとり、同大学民俗学研究所の所長もつとめる小島孝夫教授は本学彫刻学科出身である。入学して間もなく、たまたま宮本常一(のち名誉教授)の授業を受講したことが契機となり、そこから学内外の多くの人たちと出会い、さまざまな経験をしながら、結果的に入学時の思いとは全く異なる進路を選択していくことになったという。
宮本常一の話術の虜になり、自由意思で集った学生たちによって生活文化研究会が結成された。学生たちは、特に民具を実測する経験によって民俗学にのめり込んでいった。民具に内包される、日常生活の成り立ちに関する情報を標本化する独自な図法は、ファイン、デザイン、建築など、さまざまな学科の学生たちの共同作業によって確立された。
旅を通じて、生活の現場に飛び込んでいった一人のムサビ生の青春を、小島孝夫先生自身に回顧してもらった。
武蔵野美術大学に入学する
私は彫刻を学ぶことを目指して1976年に武蔵野美術大学に進学した。1年次の履修登録時に「民俗学(宮本)」とあったので何気なく登録した。初回の講義で宮本常一先生(註1)本人が教壇に立つまで、先生が武蔵野美術大学に在職していることを知らずにいたので、教室での出会いは驚きであった。自宅に先生の『忘れられた日本人』(註2)があり、高校生の時の愛読書の1つであったからである。私は高校では山岳部に所属しており、鈍行列車での移動時や山行中の停滞日にテントの中で何度も読み返した本であった。余談になるが、高校時代の他の愛読書には、今西錦司『生物の世界』、川喜田二郎『パーティー学』『鳥葬の国』などがあった。
私が聴講した宮本先生の講義は一般教養科目として位置づけられていたもので、階段教室で行われていた。先生は講義の最初に前列に座っている学生に「君はどこの出身か」と声をかけることがよくあった。たとえば学生が「三重です」と答えたとすると、先生は伊勢地方や志摩地方の歴史や民俗の話を始め、三重県での自身の調査経験や知己との交流のエピソードなどを語っていくという形で講義の流れが構成されていた。日常生活が研究の対象となることが毎回の授業で説かれた。当時の講義の内容で印象深かったのは広島県能地の家船の話で、宮本先生が主導した家船習俗の緊急調査が終了した直後であったので具体的な事例が紹介された。こうした講義内容により日常生活には地域性があり、日常生活の成り立ちと移り変わりを検証していくことが大切であるということが毎回の講義をとおして説かれていった。こうした講義に学生たちは引き込まれていった。私もその一人であった。
前期の講義が終わり、夏休みの課題レポートの指示があった。大学生になって最初の夏休みということもあって、何か面白いことをしたいと考えていたので、レポートの作成を兼ねて、北海道幌泉郡えりも町字東歌別というところにコンブ漁のアルバイトに出かけた。
大学1年次の出会い
1970年代のえりも町はコンブ漁アルバイトの最盛期で、私が出かけた年も日高本線の当時の終着駅であった様似駅には多くの学生が大きなザックを背負って降り立った。駅前には「○○君」と書かれたダンボール紙片等を持った雇い主たちが待っていた。駅前では雇い主を探す学生は不安顔だったが、雇い主側はアルバイト学生の当たり外れを確認する最初の機会になっていて、異様な高揚感があった。
当時のコンブ漁アルバイトは、雇い主のコンブ小屋に寝泊りして、早朝に胴長靴を履いて流れコンブを拾い、朝9時から始まるコンブ漁では雇い主が積載してきたコンブを船から干し場まで担ぎあげて干し、昼食後に乾燥状態を確認してコンブを出荷仕様に裁断し、コンブ小屋に収納するのが日周期の作業であった。コンブ小屋に寝泊りするのは、出荷前を狙って押し入るコンブ泥棒に対する小屋番としての意味合いもあった。幸い、体力もあったし好奇心も旺盛であったため、比較的早くに仕事の内容をこなせるようになり、運転免許を持っていたことで天候の急変にともなう異なる干し場への搬送作業などにも対応できたため、雇い主の小助川英明さんからも小助川家の人たちからも好意的に対応してもらえるようになった。アルバイトが開始されて1週間が過ぎた頃には、「□□のアルバイトが帰ってしまった」というような噂が聞かれるようになっていたので、上々のスタートであったのだと思う。
仕事に慣れてきた頃に雇い主が「小屋番も退屈だろうから」と和船(註3)の漕ぎ方を教えてくれることになった。船が漕げるようになると、「おかずは自分で採れ」と刺し網(註4)を貸してもらうことなった。それからは、一日の作業が終わると船を漕ぎだし、刺し網を仕掛けることが日課に加わった。磯の周辺に夕まずみまでの短時間仕掛けるだけであったが、アブラッコと呼ばれていたアイナメなどが数匹は掛かるようになり、毎晩の夜食に鍋料理が食べられるようになった。えりも地方では夏季でも朝夕は薪ストーブを絶やさない生活だったので、手軽に夜食を自炊できるようになったことはありがたいことだった。それまで魚を下ろすことなどはしたことはなかったが、必要に迫られると自然に身についてしまうものであった。これらの経験が漁撈習俗に関心を持つ契機となった。
7月20日から8月31日までのアルバイトが終わると、アルバイト期間中熟読していた『風土記日本6(北海道篇)』(平凡社)に記載されていたアイヌの人たちの暮らしに興味をひかれ、復路に沙流郡平取町二風谷に立ち寄ることにした。チセという名の民宿に一泊して、翌日、宿の主人の紹介で二風谷アイヌ文化資料館を訪ねた。その時に萱野茂さん(註5)に初めて会った。萱野さんが資料館を案内してくれることになったが、資料の説明のなかで「あんたらシャモ(和人)がアイヌも大切なものを奪っていった」と何度も聞かされた。ここでは自分自身がシャモという他者であることを自覚することになった。しかし、萱野さんの憤りの事由についてはあまり理解することなく二風谷を後にすることになった。

この夏の経験は、それまでの日常生活では知ることのできなかった沿海地域のくらしや、アイヌの人たちのくらしという異文化の存在を実感することになった。これらの体験は大学ノートに日記として記録(註6)していたので、レポート代わりに提出したところ、宮本先生から「面白いことをしたな」と声をかけられることになり、それ以降、在学中の関心は彫刻を制作することから、日常生活の成り立ちを理解できるようになりたいという思いへと変わっていった。当時の私の周辺にはこうした経験を共有していた学生たちがいて、宮本先生の研究室に集うようになっていた。その集いは生活文化研究会と呼ばれていた。
また、宮本先生が顧問を務めていた部活動に「地球を掘る会」があった。当時の武蔵野美術大学では考古学の授業が3コマもあり、縄文時代・弥生時代・島嶼という時代別・地域別に人選された非常勤講師の先生方が出講されていた。このことも宮本先生が準備したものと考えられるが、美術史と同様に文化史に関する基礎教育のカリキュラムが形成されていた。私は入学時から「地球を掘る会」に参加しており、今村啓爾先生の指導により埼玉県小鹿野町での岩陰遺跡の発掘や山梨県塩山市の武田氏の隠し金山遺構の予備調査などに参加した。こうした相談や報告のために講義以外でも宮本先生の研究室を訪ねる機会があったので、自然と生活文化研究会にも出席するようになっていった。
しかし、その年度をもって宮本先生は武蔵野美術大学を退職されることになった。
郷里の山口県東和町での「郷土大学」の活動に専念するためとのことであったが、私たち学生にとっては全く予期せぬことであった。生活文化研究会は田村善次郎先生(註7)、相澤韶男先生(註8)、研究室の事務を担当していた神保教子さんが引き続き指導してくださることになった。
民具実測のこころみ
退職後も宮本先生は大学に来られることがあったが、生活文化研究会の集まりには出席することはなくなった。研究会の集まりも不定期になり、研究室を訪ねる学生も減っていった。研究会としての活動計画がないまま過ぎていた折に、山口県柳井市の小田家から「商家博物館むろやの園」所蔵の民俗資料の整理作業の依頼が民俗学研究室に届いた。神保教子さんを中心に研究会の学生たちが参加することになり、5月の連休を利用して柳井市に出かけた。当時は民具調査についての知識はなかったが、小田家が屋敷内に住まわせていた職人たちが使用していた道具類の悉皆調査を経験することができた。宮本先生が立ち寄ってくれたこともうれしい出来事であった。この調査に参加した学生たちが宮本先生退職後の生活文化研究会の核となるメンバーになり、小田家での調査成果の整理作業が学内でも続けられた。
この年の11月に、私は萱野さんと思いがけない形で再会を果たすことになった。昼休みに美術資料図書館前(中央広場)でキャッチボールをしていると、スーツ姿の萱野さんが正門方向から歩いてきたのである。萱野さんの再会の言葉は、「あんたここの学生さんだったのかい」であった。萱野さんは宮本先生に相談があって訪ねて来たということだったので、図書館棟にあった民俗学の先生方の研究室に案内して、そのまま研究室の隅で相談の内容を伺うことになった。相談の趣旨は、萱野さんが収集した民俗資料を本にまとめたい、そして資料1点ずつに詳細な解説を付したいというものであった。具体的には、資料の写真にトレーシングペーパーのようなものを重ねて、資料の材質などを示すような工夫をしたいとのことであった。当時の宮本研究室は4人の先生方の共用研究室になっていて、同席していた相澤韶男先生から資料を実測して図示すればよいのではないかという提案があり、直後の生活文化研究会の例会でこの件が紹介された。それを機に、研究会に集っていた私たち学生は、実測図の作図方法を定期的に検討することになった。展開図の作成方法の習得と併せて、簡便で均質なスケッチ図を描くための等角方眼紙を用いる方法なども検討された。
建築学科出身の相澤先生を中心に検討がすすめられ、建築用に用いられる第一角法よりも第三角法の方が展開図の関係がわかり易いため、民俗資料の図示には向いているのではないかという結論に達し、冬休みまでの間、自主的な勉強会が続けられることになった。


その一方で、民族文化映像研究所の故姫田忠義所長が中心となって萱野さんの『アイヌの民具』を運動協力者版という形で刊行する準備(註9)がすすめられ、一口5,500円の協力金が全国の2,500余名から寄せられ、その資金により田村先生を責任者とした13名は実測図作成班として、1978年2月から3月末まで二風谷に出かけることになった。萱野さんの書斎の屋根裏で寝泊りしながら、資料館内での実測作業が行われた。

大学では図法の基礎を理解するために直方体などで作図練習をしていただけだったので、卑近の植物を多用した生活用具から丸木舟までを対象とした実測作業は試行錯誤の連続であった。この作業の過程で、生活用具を対象とした実測図の雛形はほぼ完成されていったと言って良い。10名の学生は油絵・彫刻・視覚伝達デザイン・工芸デザイン・建築学科出身であった。実測図の作成は、正確に計測して正確に縮小することを原則としてしたので、均質な図面に仕上がっていったが、油絵や彫刻を専攻している学生は、ついつい細部まで描き込んでしまうことがあった。主観的な表現をしようとする意識と客観的な設計図を作成する意識との差異ということだったのだと思う。こうしたところに作図者の個性が表れていたように思う。作図者間では、こうした差異を愉しんで作業をすすめていくことになった。合宿で作業を続けていく過程で記録方法としての実測図の客観性が理解され、共有されていった。


この時の経験を振り返ってみると、アイヌの人たちが使用してきた民俗資料を観察し実測することによって、民具に凝縮されているアイヌの人たちの日常生活を理解する視点を発見していくことになったように思う。それらを必要としたアイヌの人たちの生活の成り立ちを理解する方法が共有されていくことになっていった。
萱野さんの自宅で作業している期間には、二風谷の他の人たちとも交流する機会があった。夕食後に訪ねてくる人たちのなかには、アイヌ民族として生まれてきたことで、それまでどのような差別を受け悔しい体験をしてきたのかを語る人たちもいた。シャモの一員としてその語りに対して直接会話を介して交流する方法もあったが、当時の私には当事者の感情に直接寄り添うような対応はできなかった。仲間からは「協調性がない」と批判をうけることにもなったが、現地作図班の一員として自分に何ができるのかと考えたときに、アイヌの人たちの歴史や文化について確かな知識がないまま安易な共感や同情はすべきではないと考えるようになっていたからである。二風谷を訪ねた際に萱野さんから、「あんたらシャモは」と叱責された時から考えていたことであった。アイヌの人たちに誠実に接するためには、実測作業を介してアイヌの人たちのそうした過去の経験に思いをいたすよう努めるしかないと当時は考えていた。
実測図を作成するという行為は、モノを介してアイヌに人たちの日常生活や心意、すなわち「モノ語り」を理解しようとしたことだったのではないかと思う。実測作業に際して一緒に考えたり悩んだりすることができる仲間がいたことで、共通の存在としての他者の日常生活を構成している生活用具を実測することでアイヌの人たちの日常生活を総体的に理解することになっていった。

(註1)宮本常一:みやもと・つねいち(1907–1981)。日本の民俗学者。武蔵野美術大学名誉教授。1930年代から1981年に亡くなるまで日本国内の民俗調査に従事した。『宮本常一著作集(52巻+別集2巻)』未来社、『民具学の提唱』などの膨大な著述があるが、それらのなかに1978年に刊行された宮本自身の自叙伝ともいえる『民俗学の旅』文芸春秋、がある。
(註2)『忘れられた日本人』:1960年、未来社刊。宮本常一の代表作の1つとされる本書には、宮本が高度経済成長期の最中、「忘れられた日本人」を探しだしていった過程が記録されている。フィールドワークの実践書として読むことが可能である。
(註3)和船:現在の漁船はFRP(繊維強化プラスチック)製のものがほとんどであるが、当時は伝統的な木造船が主流であった。木造の漁船のことを漁撈用和船と呼ぶ。
(註4)刺し網:漁網を鉛直に帯状に仕掛けて魚類などの遊泳・移動を遮断し、からませて捕獲する漁具。
(註5)萱野茂:かやの・しげる(1926–2006)。アイヌ民族で、アイヌ文化研究者。晩年はアイヌ初の国会議員となりアイヌ新法制定に尽力した。
(註6)日記として記録:この日記には「えりものおと」というタイトルをつけた。その後、調査地等により「とおののおと」「しまのおと」「あわのおと」などのタイトルを付すことになった。「とおののおと」が前後から同じに読めたタイトルであったことが面白かったため、その後も慣例化することになった。
(註7)田村善次郎:たむら・ぜんじろう(1934–)、武蔵野美術大学名誉教授(在職:1968–2004)。『ネパール周遊紀行』(武蔵野美術大学出版局、2004年)ほか。
(註8)相澤韶男:あいざわ・つぐお(1943–2023)、武蔵野美術大学名誉教授(在職:1977–2014)。『大内のくらし』(ゆいでく、1998年)ほか。
(註9)萱野さんの本を運動協力者版という形で刊行する準備:『アイヌの民具』刊行運動と呼ばれた。刊行委員会は姫田忠義(代表)・本多勝一・宮本千春が委員となり、武蔵野美術大学生活文化研究会が現地での図版作成を担当し、近畿日本ツーリスト日本観光文化研究所が編集とレイアウトを担当した。その要となっていたのは宮本常一であった。アイヌの民具刊行運動委員会編、萱野茂『アイヌの民具』は1978年に刊行された。刊行運動委員会解散後、すずさわ書店から市販本も刊行された。
成城大学教授。漁村等で暮らす人びとの更新性資源の伝統的な利用慣行の分析をとおして、動植物等の天然資源を持続的に利用するための資源管理の思想について研究。共著に『海と里』(日本の民俗学1、吉川弘文館、2008)、編著に『平成の大合併と地域社会のくらし—関係性の民俗学』(明石書店、2015)、『地域社会のゆくえ、家族のゆくえ―農村・山村・海村・離島の社会変化』(明石書店、2021)ほか。