本学の出版活動は、草創期、前身の帝国美術学校時代にさかのぼります。すなわち戦前から戦中にかけて、学校及び学友会が発行した雑誌群です。 概略を記すと、はじまりは1931(昭和6)年12月、帝国美術学校学友会による「学友会誌」で、ひとまず毎年暮れ、34年の第4号まで発行されます。 続いて1935年、帝国美術学校発行の雑誌「帝国美術」が創刊され、37年の第7号まで継続します。他方、学友会発行の雑誌も36年、学友会誌「帝国美術」第5号としてリスタート。この学友会版「帝国美術」は戦局が悪化していく43年11月の第11号まで存続しました(第11号の発行元は「帝国美術学校報国隊」)。 これらの誌面には、校内の諸行事はもとより、本学初期の学生たちの息吹を伝える記事が満載されています。このコーナーでは、各号の目次とともに、注目コンテンツに関するコラムを掲載します。


帝国美術学校が開校したのは1929(昭和4)年10月30日のこと。この記念日を選び、翌年から創立記念祭が催行された。宮永芳江「仮装行列記」は31年、2回目の創立記念祭で呼びものとなった在校生の仮装行列をリポートした記事である。筆者の宮永は当時、工芸図案科の2年生だった。

宮永芳江「仮装行列記」、「学友会誌」第1号、帝国美術学校学友会発行、1931(昭和6)年、pp.44-45

書き出しは「美しく黄ばんだ櫟(くぬぎ)の林が、燦々と降り注ぐ十月の太陽に照らされて静かに息づいてゐる」と、まずは秋の武蔵野をうたいあげるが、午後1時、吉祥寺の校庭に集合した生徒たちは珍妙な扮装を競いあう風だったらしい。

誌上には記念写真が掲げられ、40~50人が参加したように見える。在校生は同じ誌面に載る名簿によれば、まだ200人余りだった頃だが、宮永が列挙するには、「紙の衣に薙刀を振りかぶり、歩く度にガサガサと物凄い音をたてる昭和の武蔵坊弁慶」にはじまり、チャップリンもいれば、犯罪王アル・カポネもいる、隻眼隻手の丹下左膳も。あれこれ女装した者もいて、洋装断髪で物議をかもしたモダン・ガール(モガ)に、宮永は「毛断害有」の字を当てている。このありさまに、校長の北昤吉や来賓たちは「唯茫然と打ち眺めて居られる」とあり、彼らの微苦笑を髣髴させて、おかしい(ただし、このくだりには差別語が含まれる。ここでは人権感覚を含めた史料性を考慮し、そのままPDFで公開している。ご理解を賜りたい)。

さて、美術学生と仮装行列と言えば、時代はさかのぼるけれど、1903(明治36)年、東京美術学校(現・東京藝大)の設立15年記念の「美術祭」で、さまざまな仮装が演じられたことが知られる。「神代行列」「埃及(エジプト)行列」「希臘(ギリシャ)行列」といった具合で、当時、研究科にいた高村光太郎は後年、「この美術祭には岩村先生が大いに力を入れて」と回想している(『某月某日』)。実際、『巴里の美術学生』で、ボヘミアン的な美術学徒の気風を伝えた美学者、岩村透の肝いり企画だったらしい。

この先例との関連で言えば、帝国美術学校初期の教員には、杉浦非水や平福百穂など東京美術学校の出身者がいたし、森田恒友は「美術祭」当時、西洋画撰科2年生だった。もっとも、彼ら教員たちがサジェストしたかどうかは定かではない。四半世紀余りを経て、お祭りごとで仮装行列というのはすでに一般的だっただろうし、帝国美術学校の仮装行列には、美校の例とは異なるところがある。

たとえば、宮永が伝える仮装には、映画ネタのチャップリンや丹下左膳が含まれる。作家の林不忘が生んだ剣士、丹下左膳については、昭和初期、映画各社が次々に新作を送り出していた。映画館はすでに旧東京市外に広がり、吉祥寺に「井の頭会館」、西荻窪にも「西武キネマ」があった(国際映画通信社編「日本映画事業総覧 昭和3・4年版」)。帝国美術学校にもやはり映画好きの生徒が少なくなかったのだろう。

加えて、東京美術学校の仮装行列は寸劇仕立てだったとされるのに対し、帝国美術学校の生徒たちは、校外へ繰り出した。マンドリン、シラホン(木琴)に、打楽器は石油缶という「珍ジヤズ・バンド」の鳴り物入りで、制定されたばかりの校歌を高唱し、西荻窪の目抜き通りを巡った。学校に凱旋したのはもはや「夕陽斜に射して木々の葉黄金に照り返される頃」だった。

同じ「学友会誌」創刊号に載る西洋画科2年生、小田格一郎の一文「紀念日を迎へて」によれば、入学試験を受けた2年前、雪解け道を歩きながら、「学校の辺避(へんぴ)な土地にあるのに少なからず驚いた。しかも畑の中に僅かにバラツクが建つてゐたのみであつた」。当然、西荻窪で尋ねても学校の存在を知る人はまれだったという。そこを仮装行列で練り歩いたわけで、美術学校とその生徒とはいかなるものか、デモンストレーションの効果は大きかったのではなかろうか。

この「仮装行列記」を結ぶにあたり、宮永は「若き日は再びは来(きた)らじ。真面目に勉強すると共に騒ぐべき時には羽目を外して大いに騒がうぢやないか」と呼びかける。学業に一言するあたり、少々まともすぎる気もするが、宮永自身、盆踊りが好きで、創立記念祭で校内の広場に櫓が立つと、まっさきに太鼓を叩き出すタイプだった(「学友会誌」3号)。ここで言いたかったのはむろん「騒ぐ時は騒ごうぜ」だったはずで、このノリが今日まで本学の「芸術祭」に受け継がれていること、贅言は要すまい。

なお、宮永は1907(明治40)年生まれ、新潟県の新潟中学を経て、30年に帝国美術学校に入学し、35年卒。学友会活動には積極的で、「学友会誌」創刊号の題字のレタリングを手がけ、32年の第2号では、早世した級友の追悼「故秋山康人君を想ふ」を寄せている(本稿に「僕」とあり、宮永は男性と知られる)。

さらに1933年12月発行の第3号では編集兼発行人になっている。この号にみずから執筆した「渋江先生の思ひ出」は、工芸図案科初期の教員で、この年9月に没した渋江終吉をしのぶ記事で、それによると、宮永たちは「朱華(はねづ)染色刺繍研究会」をつくり、渋江は顧問だったという。

このほか、雑誌『書物展望』1932年3月号の表紙絵は「宮永芳江」と記載される。同号には表紙図案募集の告知があり、おそらく宮永その人なのだろう。(BKM)

*「学友会誌」第1号「目次」(1931年12月発行)