「学友会誌」編集部からの呼びかけ

「学友会誌」は、本学の前身である帝国美術学校の開校から2年後の1931(昭和6)年に発刊した。いわゆる同盟休校事件によって帝国美術学校が分裂する1935(昭和10)年まで、学生が主体となり教員も寄稿する雑誌として本学黎明期に第4号まで刊行された。創刊号の「後記」では、編集部から学友に対して次のように呼びかけられた。

次の号は来年三月に出したいと思つてゐるので、それには一層多くの諸君の論文を得たいと思ふ。特に編集部員の希う所は、吾が国各地の郷土芸術並びに芸術品の紹介である。各地それぞれの地域に、長い伝統を有する芸術品の制作が現に行はれて居る。また各時代のすぐれた遺品があるに相違ない。それが如何にしてはじまり、如何にして作られ、如何にして存するかを、各人それぞれの立場からの親切周到なる紹介或は研究を寄せてほしい。
(「学友会誌」第1号「後記」より)
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そうして発刊された第2号の巻頭には、東京高等工芸学校(現千葉大学工学部)元教授の宮下孝雄による講演録「新興工芸の融合点」が掲載された。内容は、生活に身近ないわゆる民具から日用品、そして現在でいうプロダクトデザインや建築の素材まで広い視野で講じている。編集部はこれに続く形で、日本各地の郷土文化や工芸に関する幅広いテーマを募ることで、美術作品や芸術論一般に限らず、多様な関心を持つ学生の雑誌への参加を促すねらいがあったと考えられる。

学生からの「各地の郷土芸術並びに芸術品」に関する寄稿

「各地の郷土芸術並びに芸術品」や「各地それぞれの地域に、長い伝統を有する芸術品」を紹介してほしいという編集部の呼びかけに、即座に呼応した学生たちがいた。帝国美術学校2期生で、工芸図案科の学生であった筑井重は郷里の埼玉と群馬に残る民俗芸能の人形芝居について、磯部陽は郷里の福島の郷土玩具について、第2号と第3号に連続寄稿したのである。

その磯部陽は卒業後、ろうけつ染め作品の作家として活動した人物らしく、1940年には「臈和会」を結成したとある(東京文化財研究所刊行『日本美術年鑑』の記事参照)。「学友会誌」第2号には「私の蒐集郷土玩具に就て」を、第3号に「郷土玩具」を寄稿し、後者の冒頭で郷土玩具蒐集の動機を述べている。

麦踏むやモンペにからむ風の蝶
 山に包まれた北国の或る温泉の町はずれを歩いた時の事です黄ばんだ空気の中に掲色の森がぼうつとうき出てみえます、山には未だ雪が残つてゐました。
 これらの姿を更に生かしたのはモンペ姿の農夫達一家の麦踏みと只無邪気に遊びまはつてゐる子供等の赤い頬でした。素朴なそして高雅な生活です。
 これまでに経験した事のない感激にうたれて、凹凸の多い道を上りつめた時、と或る店先の埃の中に曾て子供の頃見た覚えのある古ぼけた真赤な玩具が投出されてあつたのです。みるからに素朴そのものの土から生れた可愛いおもちやです。あだかも麦踏み一家を想はせる様な。
 此の日の追憶にと買い求めて帰つたのが抑々蒐集の素因となつたことを記憶して居ります。
(「学友会誌」第3号63〜64頁)
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もともと郷土玩具は、近代以前から各地の信仰や素朴なおもちゃとして文化的に育まれてきたものである。しかしそれらに意図して目を向けて蒐集し、全国的に比較したりその造形を鑑賞したりする思考は極めて近代的な眼差しである。

明治中期から大正時代には、近代化や西洋化、そして美術・工芸を巡る動向に異論を持つ趣味家たちが、藩政期の民衆の造形を見出し、互いにつながって江戸趣味の共同体を生み出した。郷土玩具趣味の初志においては、制度化される美術・工芸や美術教育の対極に位置する、郷土玩具のような周縁化された造形物を愛でることは、文明批判に立脚したラディカルな態度であった。

その後、昭和初期の国内旅行ブームにおいては、在地の郷土玩具が復興し、その土地の風土を宿した土産として人気を博していた。同時にいわゆる農民美術も注目されていた。都市の百貨店では郷愁を誘うそれらの展示頒布会が頻繁に開催され、商品経済と結びついた「郷土玩具ブーム」と言える状況にあった。後述するように、磯部はこうした世情について、少なからず違和感を抱いていたことが記事からは窺われる。

磯部学生が紹介した福島の郷土玩具(本学民俗資料室のコレクションから)

図案を学びながら郷土玩具蒐集を進めていた磯部にとって、「吾が国各地の郷土芸術並びに芸術品」を紹介してほしいという「学友会誌」編集部の呼びかけは、みずからの問題意識を披瀝し学友や教員と共有する、またとない機会と捉えたであろう。

磯部陽は第2号に投稿した「私の蒐集郷土玩具に就て」で彼にとって馴染み深い福島の郷土玩具を紹介した。その一覧は以下の通りである。

三春の張子、首振虎、達磨、起姫、俵牛、玉兎、面、三春の子育木馬、三春駒、会津若松の張子、赤ベーコ、起姫、会津若松の練物、会津若松の姉さま、久の浜張子、馬、面、天神、瀬の上の起姫、福島まさる、飯坂木馬、オケケンさま、獅子かぐら、飯坂こけし、鯖湖こけし、土湯こけし

その一部を、磯部による解説文と、本学民俗資料室所蔵の資料で紹介しよう。もちろん磯部自身のコレクションではないが、民俗資料室収蔵庫で実物を見学いただきたい。

三春の張子。多くの蒐集家の愛玩の的となってゐる三春の張子は全く天下一の名玩である。全国張子中その右に出るものがない。然しこの張子も今や老衰期をすぎて絶滅に瀕してゐるのは全く惜しいことである。
(「学友会誌」第2号66頁)
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全て三春張子。左から俵牛(KG003384)、本陣達磨(KG000440)、玉兎(KG007286)(以下、画像提供:武蔵野美術大学 美術館・図書館 民俗資料室、撮影:宮下晃久)

面。誰もが推奨する三春の面は実に秀れたもので、就中狐と獅子、天狗の三つは優秀である。狐の眼の周囲を群青で隈取つたのや天狗の青い眼口元の強さ等感服の外はない。
(「学友会誌」第2号67頁)

全て三春張子。左から宝珠狐面(KG000445)、三疋獅子面(KG000442)、烏天狗面(KG000463)

赤ベーコ。若松張子中での傑作で赤一色で塗られ、唯首の付け根と足先が黒でよい調和をとつてゐる。
会津若松の練物。殊に天神は驚くべく立派なもので、端麗に磨き出された面長の顔はすばらしく良い。古型になると丸顔で下ぶくれの気味になつてゐる。又大型のものは胴が張子でそれに練の首が付いてゐる。
会津若松の姉さま。布張りの顔、体一つ一つ白紙に張り付け自虎雛とも呼ばれてゐる。郷土味深いものである。
(「学友会誌」第2号67〜68頁)

左から会津張子・赤ベコ(KG000508)、会津天神(KG000477)、会津姉様(KG003446)

面。天狗は就中特色あるもので濃紅のそして漠大に長い鼻とが三春のものよりも活気があり秀れてゐる。
(「学友会誌」第2号68頁)

天狗面(KG000384)

郷土玩具への憧憬、農民美術批判、そして創生玩具への共鳴

郷愁を誘う郷土玩具の蒐集や研究は、身近な生活文化を掘り起こす知的な遊びであった。忘れられつつある素朴なおもちゃに日本文化の古層を探る醍醐味もあり、それを雑誌や頒布会を通じて広く全国の同志とシェアし、交流できる新しい趣味だったのである。

土から生れ出た純朴な芸術を唯「ガラクタ」と卑下蔑視し世人から忘れられようとしてゐるのは誠に慨嘆に堪へない。最も好意を寄せる少数の蒐集家さへも単に蓄へてその雅趣を楽しむの範囲に限られ全く郷土玩具の何たるかを解するもの少なく日本民族の成長と何ら無開係の如くに忘却され来つた。
(「学友会誌」第2号65頁)

同時代の郷土玩具趣味は、その後第二次世界大戦下にあっては、郷土愛を醸成することによる国民文化の称揚や、日本民族の優位性を誇張するような言説と一体化していった。その素地は磯部が学生生活を過ごした昭和初期の郷土玩具ブーム期に育まれたが、一学生である磯部の文章にもナショナリズムに通ずる思考の一端を見ることができる。

例えば、「日本の過去は世界屈指の郷土玩具国であると云ふ。然らば一体どんなものがあつたか。日本民族はどんな玩具に育まれて今日の大を成すに至つたか」といった主張、「郷土味」あふれる精神性への共感、それを宿した蒐集物への執着は、この時代特有な言説を含んだものであった。

とはいえ、美術学校の学生である磯部は、やはり図案における問題意識を中心に郷土玩具を蒐集していた。第3号の「郷土玩具」においては、郷土玩具をもとに新たな造形的な実践へと向かっていくための、「新しき生活から生れ出た玩具」の創出に言及している。

時代が進展し生活様式が動いてゆけばそれに伴つた郷土玩具が生れてくるのは当然で真に新しき生活から生れ出た玩具こそ現代のもつ美と力の創造であらねばならない。郷玩のもつ特有の興味は素朴さと純粋のローカルカラーに捨て難い味があるのでありますから各地に勃興しつつある農民美術などは生活を考慮しない唯単に土産物としての一様のものでありますから之等のものには何れも一考も要しません。吾々はこれからの創生玩具によつて新時代の理解を高め生活の向上を計らなければならない。
 吾々は古い郷土玩具のよさをも一度その時代と併合して見直してみなければならない。
(「学友会誌」第3号69〜70頁)

農民美術とは、美術家の山本鼎が長野県上田を中心とする地域で展開した運動であった。普段は農林水産業に従事するふつうの人々が、自然や土とのかかわりの中で独自な感性を発揮し、芸術的感性を発露させた新しい芸術を作り出すという思想でもあった。戦前期の農村の副業政策と結びついて全国的に展開した農民美術においては、各所に同じような木彫り人形や木工品、刺繍の製品が現れ、固有な風土と乖離した農村らしい土産物だけが量産されているという批判も上がった。特に、磯部が書籍を通じて郷土玩具について学んだ絵本作家の武井武雄は、農民美術に対して批判的であった。

磯部は本文中で、「農民美術」を「生活を考慮しない唯単に土産物としての一様のもの」と一蹴し、「創生玩具によつて新時代の理解を高め生活の向上を計らなければならない」と、「創生玩具」への共鳴を表明している。その創生玩具とは、伝統的な郷土玩具やその土地の歴史や伝承に取材し、近代的な新素材や技術も柔軟に取り入れながら、新しい玩具を生み出そうとする文化創造活動であった。廃絶した郷土玩具を、現代に復活させることも広い意味では玩具の創生と言える。

「創生玩具によつて新時代の理解を高め」、「古い郷土玩具のよさをも一度その時代と併合して見直」す温故知新の主張は、郷土玩具に深く共感した先に、図案を学ぶ学生としてその造形に新たな可能性を見出そうとする展望の表明であったのであろう。

学生をつなぐ“望郷の念”

磯部が同誌第2号に寄稿したのは、3年生の時であった。その文中で「小生が郷土玩具の研究を思ひたつてより未だ三歳を過ぎず一括して論ずることは出来ないが」(第2号65頁)と記しているように、郷土玩具にのめり込んだのは帝国美術学校入学以降であった。

古い玩具に残された郷土味と過去の生活状態とは吾々に懐古的な親しみと興味を与へます。然し只歴史あるが故に価値あるのではなくて、一ヶの芸術品として認められます。そこには郷土の温みと民衆の力強い生活力が玩具を通して表はれたのであつて吾々はこれらの玩具から人間精神の純粋なる状態、過去の子供の心、地方の特異性を洞察する事が出来るのであります。
(「学友会誌」第3号69頁)

民衆文化を純粋で本質的なものとして美化するきらいもあるが、美術学校に進学するために上京した磯部にとって、郷里のありふれた農村風景に感動する体験は、素朴な造形の魅力に開眼する契機となった。「学友会誌」の学生名簿によると、在籍する学生の大半が地方からの上京者であった。学生たちにとって“望郷の念”は切実な想いであったに違いない。

開校当時の学内に、郷土玩具趣味の賛同者がどれだけいたかはわからないが、学生たちに共通する“望郷の念”は、開校間もない美術学校にある種の一体感を育む役割を果たしていたであろう。

加えて、同誌には学生の同朋意識を表す「帝美ボーイ」なる言葉も見られるように(「学友会誌」第3号193頁)、開校当時の帝国美術学校には男子生徒しかいなかった。実は、近代における郷土玩具の賛同者はほとんどが男性であり、志を同じくする者同士が徒党を組んで活動するボーイズ・アソシエーションとしての性格が強い。「学友会誌」編集部が投稿を呼びかけた「各地の郷土芸術並びに芸術品」や「各地それぞれの地域に、長い伝統を有する芸術品」というテーマの時代性については、引き続き検討が必要である。

*「学友会誌」第2号「目次」(1932年12月発行)
*「学友会誌」第3号「目次」(1933年12月発行)

参考文献
加藤幸治『郷土玩具の新解釈 ―無意識の“郷愁“はなぜ生まれたか―』(社会評論社、2011年)

加藤幸治

1973年、静岡県浜松市生まれ。武蔵野美術大学教養文化・学芸員課程教授、美術館・図書館副館長。和歌山県立紀伊風土記の丘学芸員(民俗担当)、東北学院大学文学部歴史学科教授(同大学博物館学芸員兼任)を経て、2019年より現職。博士(文学)。専門は民俗学、博物館学。
監修に武蔵野美術大学民俗資料室編『民具のデザイン図鑑―くらしの道具から読み解く造形の発想』(誠文堂新光社、2022年)。近著に『民俗学 パブリック編―みずから学び、実践する』(武蔵野美術大学出版局、2025年)、『民俗学 フォークロア編―過去と向き合い、表現する』(同、2022年)、『民俗学 ヴァナキュラー編―人と出会い、問いを立てる』(同、2021年)ほかがある。