2011年6月24日(金)〜7月30日(土)に武蔵野美術大学美術館で開催された「ムサビのデザイン コレクションと教育でたどるデザイン史」展。本展にあわせ、これまで大学にかかわった教員たちが、ムサビのデザインのコレクションと研究・教育について語る対談シリーズが行われました。本シリーズは、コレクションのみならず、ムサビのデザインの研究・教育のあり方を歴史的に伝えるものです。今回はそのなかから、本学名誉教授の小石新八と、芸術文化学科主任教授(当時)の楫義明による対談を紹介します。

社会的要請として

楫:それまで舞台美術やインテリアデザイン、それからディスプレイデザインというような、建築のようなハードではなく、ソフトとしての立体を扱うような勉強の場は他にはなかったと思うのですが、それを日本で初めて武蔵野美術大学(当時は武蔵野美術学校)につくられたのが三林亮太郎先生でした。当時の経緯はご存知ですか。

小石:学生の身分でしたから、深いところまではほとんど見えていません。社会的な背景としては貿易が重視され、国際見本市のような展示会が海外でも行われるようになっていく、日本も世界にならってそれらを担当するグラフィカルでない立体の、空間的なデザイナーが必要とされてきたということを当時について書かれた資料で読みました。そうした方面の人材養成という視点だったのでしょう。

楫:当時の教育理念を記した資料を読むと、やはり社会的要請があって、産業界からの要請に対して大学としてどういう形で応えるか、ということを書いてあります。他にも産業と直結したという意味の言葉が結構いっぱい書いてあります。私が在籍していた時代の学科は産業デザイン学科という名称で、そのなかに商業デザインコース、工芸工業デザインコース、それから芸能デザインコース(現・空間演出デザイン学科)があったわけです。そのため今と違ってアカデミックなスタンスというよりは、より社会からの要請、人材育成という目的で大学が存在していた意味が強かった気がするのです。

小石:社会にテレビ放送が普及しエンターテインメントの需要が増えて、卒業してすぐ使えるデザイナーみたいな存在が求められていましたね。つまりは能力の問題ではなく、そういった仕事を担う人が世の中に少なかった。卒業してすぐに仕事をやらなきゃいけない、という需要を受け、教育現場も動いていったと思うのです。

楫:三林先生の本来の仕事は舞台美術家で、オペラやバレエやレビューといった音楽を主体とした演劇のジャンルで優れた仕事をされ、勲章も受賞された先生ですけれど、産業界における影響というと、テレビのビジュアルをつくっていくテレビ局デザイナーを数多く養成されて、一時はテレビ局で働いているデザイナーの8割、9割が三林先生の教え子だったという時代もありましたね。

小石:芸能デザインコースは、社会的な需要を追いかけるようにしてカリキュラムや教育が組まれていた面もありますね。やがてテレビだけではなく、展示デザインの領域まで入っていき、卒業生の進路もその方面の方が多くなった。実際には社会的な需要を反映した教育内容のメソッドがあって人材育成をする、ということではなかった気がします。メソッドが確立されていくのはもう少し後の時代でしょう。

描けないと勝負にならない

小石:三林先生は学生諸君に世界の優れた舞台美術を模写させて、それらを集めて展覧会を開催されていたのですが、この絵はその時に出品されたものです。当時は舞台美術に関する資料や記録が揃っておらず、まずは国内外のすばらしいと言われていた三十数点の舞台美術をサイズを決めて復刻というか、模写しようと。ですから縮尺がばらばらになってしまう問題があるんですけれど。たとえば「赤い光の当たった柱」という文字を読み込み、多分こうであろうということで再現をしたわけです。描いたのは学生諸君ですけれど、私などはその資料を集めたり、捜したりするお手伝いをさせてもらっていたので勉強になったと思います。

舞台装置図:三林亮太郎教授 ヴェルディ作曲オペラ「アイーダ」 1969年11月東京文化会館 藤原歌劇団上演

楫:昔の学生はとても絵が上手でしたよね。デザイン科の学生もとにかく描けないと勝負にならないということを三林先生はすごく考えていらっしゃって。

小石:それはありますね。舞台美術は工房制作のような形を取るので、下塗りをする人、タッチを入れる人と分業のなかで形ができていくので、それだけ切り離してもその作品の価値があるとか、無いとかはありません。あるいは展示デザインなりインテリアの仕事もそういったイメージを具体化していくプロセスとして絵が生きているということです。その絵が描けなければ意志が伝わらないということで仕込まれてきたつもりです。

短期大学デザイン科芸能デザイン専攻授業風景

楫:舞台の場合にはそこで時間をかけて、ある一定のドラマが展開する。そのドラマをお客さんは見に来る。その手助けとして舞台装置があるわけですから、ドラマが一切記録できない状態で箱だけそこに展示したり、あるいは平面図があっても全く伝わらないわけです。舞台装置の展覧会くらい難しいものはないと思うのです。それをあえて三林先生は頻繁に企画され、年中行事のようになっていました。学生に舞台のモノクロの原画を拡大させ、想像させて模写をさせ、演出性まで加えた絵を描かせて展覧会にしました。三林先生は、なぜ舞台美術の展覧会をやろうと思われたのでしょうか。

小石:ある意味で芸能デザインというか、学科の授業を公開するというか世に問いたいという意識もあったのだと思います。

楫:これだけの精密さは、学生だからですよね。よく根気をもって描いていると思います。現実に上演されたものとは多少違うかもしれないけれど、こういう資料がここにあるということはものすごく貴重だと思うのです。

何かの役に立ちたい

楫:三林先生の授業そのものは、今でいうアカデミックなものだったかもしれないです。ただその目的として社会のなかでどうやったら生きていけるかということを、学生に一生懸命伝えていた。そのために目先の流行ではなく、モノをつくり表現する基本、我々ですと空間をつくっていくそのベースになる考え方と技術を短い時間のなかでなんとか勉強させようとされていた。その手法は、課題が古臭いということを三林先生は判っていながら、技術を継承していくためには仕方がないことだと考えられていたと思います。

小石:そうでしょうね。透視図法の課題などがその一例でしょう。

三林亮太郎教授授業風景(1964年頃)

楫:三林先生は、自分は職人ではなくモノをつくるアーティストだという意識がとても強かったと思うのですよ。当時舞台美術家の社会的地位は決して高くはなかったけれども、意識だけは弱者になってはいけないということを、三林先生の授業やカリキュラムや教育理念、それから一緒に劇場に行って、仕事の現場で見聴きする様々なことから強烈に感じたものです。

小石:それで思い出されるのは、文化大革命が終わり日本と中国の行き来が可能になり始めた時に、中国と舞台美術の交換展をやろうと言い出したことです。これを15年間で10回やりました。当時は何があったんだろう、と思いました。あれほどアメリカやフランスの空間、舞台装置を私たちに教えようとして、こちらもそれを学ぼうとしていたのに、最後のところで中国という隣の国に関心をもった。考えてみると中国と日本では、ルーツは同じかもしれないけど、生み出したものは全然違う。そこでお互いにそれを認め合おうとする動きをしようとしたのも一つの信念があったのかなぁと思うのですけど。

楫:日本でオペラとかバレエを芸術として認められる存在にするために、創生期に一所懸命尽力されたわけじゃないですか。それと同じように中国との交流についても、開拓魂のようなものが疼いたのかなと想像します。当時の中国は今のように自由ではなくて、そういうなかで演劇に関わる人がどうしたら新たな世界をつくり上げられるか、ということを考えられたと思うのです。当時も次の何かをつくってあげたい、自分が何かの役に立ちたいという信念をお持ちだったのかなと。

小石:やっぱりそれが明治生まれの人だな、と思います。

楫:同じ空間をつくっても建築なら、長い間残りますよね。でも舞台美術やショップデザインやディスプレイといった芸能デザインの学びの範疇にあったものは瞬間的に消えてしまう。舞台美術をどれだけ頑張っても、オペラの公演が3日以上続くことはないわけです。数日の上演期間が終わってしまえば、実物が存在しない、という弱さを必然的に背負っている仕事なわけですよね。そういうなかで主任教授であるご自分の後任についても、彫刻家の向井良吉先生をお呼びになった意味はすごく大きいような気がするのです。小石先生もお聞きと思うのですが、三林先生は自分の後任には向井良吉先生以外はないと思われていて、結局丸3年間を費やして口説かれました。三林亮太郎というと演劇の世界では、写実的でクラシックな舞台美術の様式の重鎮、その象徴のような方が、ある年を契機に抽象彫刻の雄と言われる方に主任教授をバトンタッチした。それは学生に対する新しい力を求めなさいというエールであり、決して弱者ではない、自信を持ちなさいというようなメッセージだったと思うのですよね。

小石:「芸能デザイン」から「空間演出デザイン」に学科名称が変わったけれど、その根底に流れているものは「モノ」のデザインではなく「コト」のデザインへの志向であったと思います。「芸能デザイン」の基点を舞台美術とするなら「空間演出デザイン」の基点は、「モノ」を通して波及する空間への配慮であり、その範疇は今も拡大しつつあるのではないか、と考えられます。

[2011年5月2日、武蔵野美術大学美術館棟にて収録]

小石新八

武蔵野美術大学名誉教授。上海戯劇学院名誉教授。1937年長野県生まれ。1960年武蔵野美術学校デザイン科卒業。三林舞台美術研究所を経て、1976年武蔵野美術大学助教授。1985年より日本中国演劇美術教育作品展委員。1981年教授、1999年から2006年、武蔵野美術大学学長補佐・理事。2008年武蔵野美術大学退任、同年名誉教授。2001年から2017年、武蔵野美術大学出版局代表取締役。主な舞台美術に「白鳥の湖」「シルヴィア」、「眠れる森の美女」「十二夜」など多数。著書に『演劇空間論』(2002年、武蔵野美術大学出版局)、『スペースデザイン論』(2004年、同・共著)、『舞台音響技術概論』(2008年、兼六館出版・共著)など。

楫義明

武蔵野美術大学名誉教授。日本ビジュアルマーチャンタイジング協会理事長。公益財団法人府中文化振興財団理事。1950年鳥取県生まれ。1974年武蔵野美術大学造形学部産業デザイン学科卒業。武蔵野美術大学助手、非常勤講師を経て、1996年助教授。1999-2021年、芸術文化学科教授。博物館や美術館、企業の文化事業における展示設計、商業空間におけるディスプレイデザインとビジュアルマーチャンダイジングを研究、実践。著書に『VMD用語辞典』(エポック出版・共著)。