たまたまのことには違いないが「学友会誌」第3号にはふたつ、豪・森鷗外に関係する文章が載っている。

まずは、この連載の初回で触れた宮永芳江「渋江先生の思ひ出」。帝国美術学校草創期の教員だった渋江終吉の追悼文だが、終吉こそは、鷗外晩年の史伝三部作のひとつ『渋江抽斎』1916年に協力した人物にほかならない。幕末の儒医抽斎を敬慕していた鷗外が子孫を尋ね、最初に探し当てたのが孫の終吉なのだった。これが史伝小説の執筆につながる。経緯は作中に記され、結びには「終吉は図案家で、大正三年に津田青楓さんの門人になった。大正五年に二十八歳である」などとある。その終吉に、帝国美術学校で学んだ宮永の追悼記は、身近に接した晩年の人となりをよく伝えてくれる。

もうひとつは、西洋画科の三年生だった神田美一の随筆「ロダンのお花さん」である。巨匠オーギュスト・ロダンのモデルになった「花子」、すなわち太田ひさ(1868–1945年については、鷗外の短編「花子」1910年で知る人もあるだろう。ロダンの芸術観に迫り、人種を超えた美を問う小説の主題に即し、鷗外が関心を寄せた「花子」その人に神田美一は会い、随筆として「学友会誌」に載せているのである。

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神田の文章を一読し、まずは2001年に開催された「ロダンと日本」展のカタログを引っ張り出してみた。日仏の研究者が総力を挙げた、まれに見るような大規模な展覧会で、ロダン館を擁する静岡県立美術館と、太田ひさの出生地でもある愛知県美術館の2館を巡回した。当然ながら、「花子」をモデルとする彫刻、デッサンも多数展示され、カタログには詳細な論考が収載されている。

太田ひさは愛知県に生まれ、明治時代半ばの1902年、踊り子として渡欧した。各地を巡業するなかで、1906年、仏マルセイユでの植民地博覧会への出演を契機に、降、数年にわたり、ロダンのモデルをつとめた。苦悶に顔をゆがめる「死顔・子」などは異様というしかないが、植民地博覧会での演目のひとつ「芸者の仇討ち」で斬られた際の表情を、ひさに再現させたのだという。ロダンの没後、ひさは自身をモデルとする彫刻2点を入手し、帰国した。大正10年1921年のことで、その後は没するまで、妹の経営する岐阜市内の妓楼に隠棲していた。

ひさに会った神田美一は、岐阜県の出身である。1930年、川端画学校に学び、31年に帝国美術学校に入学した。丸山幸太郎ふロダンと花子研究 花子の再評価と課題」「岐阜史学」第95号、1995年によれば、1930年、画学生だった神田は仲間とともにひさを訪ね、彫刻2点も見せてもらった上で、31年、岐阜中学の同人雑誌「倉庫」に、短編小説的な文章「お花さん」を載せているという。

なぜ会いに行ったのか、むろん岐阜出身の縁によるのだろう。ひさが帰国し、岐阜にいることは、例えば「読売新聞」でも報じられていた1922年1月23日

だ、想像をたくましくすると、神田を動かしたのは、1927年、アルスから刊行された高村光太郎著『ロン』だったかもしれない。光太郎は終章「小さい花子(プチトアナコで、その年2月、岐阜へ赴き、ひさに会ったことや、その語るところのロダンの思い出をくわしく書きとめ、「親しくロダンに会つた思ひがして、身内の燃え立つのを感じた」と結んでいる。美術を志す神田は、この光太郎の本に刺激され、まして自分の故郷にいるのだからと、ひさの暮らす妓楼に向かったのではなかったか

1933年行、「学友会誌」第3号の「ロダンのお花さん」は、すでに3年前になる1930年の対面を思い起こし、あらためて綴ったことになる。たしかに、すでに体が不自由だったひさの姿や語りを、記憶から浮かび上がらせるような文章である。

突然の来訪にもかかわらず、ひさは「柔和(やわ)らかな線の(あご)を蒲団の上へのせて、緩やかに目だけを動し(なが)ら」、もっと元気ならいろいろ話してあげたのだけれど、と言った。

持ち帰っていた彫刻2点が運び出され、ひさはそれに手を触れながら、「死首・子」をめぐる思い出を語った。神田も凝視し、凄惨さに打たれる。

その一方で、ひさは「ほんとうに優しいお方で/こんなことも御座いました」と、ロダンのあたたかな一面を懐かしんだ。いわく、アトリエに立っていたら「ソツと背後から、小さな子供のやうに抱き上げて――/ほんとうに驚かされてしまひました」。淋しげなその顔が一瞬、若やいだという。

執筆当時、神田は東京の西郊、帝国美術学校に学んでいた。遠く岐阜へ思いをはせ、「ロダンのお花さんは今はもう(あるい)田舎の町で、二度目の長い旅に出てしまつたかも知れない」と記す。ひさは1945年まで存命だったから、少々感傷的に過ぎる空想ではあるが、同時に、「私達の及びもつかない遠い処の巨匠ロダンその人さえもほんとうに、こんなに近い世界に生きてゐたのだつた」との感慨を書きつけている。ひさを介し、ロダンを身近に思う結びは、光太郎の『ロン』と符合し、神田がひさを尋ねた経緯を示唆するようでもある。

言い添えると、短編「花子」の森鷗外は執筆時、ひさには会っていない。ロダン文献を渉猟し、空想を交えた小説と読まれる。もとより「学友会誌」に載る神田美一の随筆はささやかで、浩瀚な「ロダンと日本」展のカタログにも言及が見当たらないが、しかし、ひさに直接会い、その体験を書き残したのだから、なかなか立派じゃないかと言いたくなる。

その後の神田は、帝国美術学校に籍を残したまま中国に遊学した。陸軍省嘱託として雲崗石仏の調査にあたったという。その傍ら、独立美術協会展にも出品したが1945年に帰郷し、教員になった。特に美術を通じての障害児教育に尽力したようである。ほかに地方史の著書として、『虎哉 伊達と武田と美濃と』『地名岐阜の由来 信長命名説を斬る』を残している。(BKM)

Series

「帝国美術」を読む

1931

「帝国美術」を読む(1)宮永芳江「仮装行列記」

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1932–1933

「帝国美術」を読む(2)磯部陽「私の蒐集郷土玩具に就て」(第2号「郷土玩具」(第3号)

加藤幸治(教養文化・学芸員課程教授)

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1933

「帝国美術」を読む(3)神田美一「ロダンのお花さん」

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コラム

1933

「帝国美術を読む」(4)田中富士雄「ベツトで溺死した男」

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