手羽イチロウと申します。​
武蔵野美術大学彫刻学科を卒業して、​普段は美大の良さを伝える美大愛好家としてネットで活動していますが、​裏(?では大学広報も担当しています。​

2025年4月に公開した
■昭和のムサビの入学式を調べてみた| MAU2029 | 武蔵野美術大学100周年ウェブマガジン

昭和44年度入学式

この記事の文末に「来年4月に平成・令和のムサビ入学式を紹介します!」と書き、​調子に乗って「ま、​芸術祭の話も書けますけどね」とつぶやいたら「ほいじゃよろしく!」と編集部から言われまして・・言い出しっぺの仕事が増える、​大人の世界ではよくあることです(涙)
も、​歴史を知ることで「なぜムサビの芸術祭は学生主体運営を大学側も尊重してるのか?」が見えてきたりするものなので、​頑張って書いてみます。​

やー、​もうすぐムサビは芸術祭が開催されますねー。​2025年9月30日現在)
今年はサーカスがモチーフになっています。​

武蔵野美術大学芸術祭2025「Ars・CIRCUS(アルス・キルクス)

会期

2025年10月24日(金)26日(日)

時間

10:00〜18:00 *最終日は18:30まで

会場

武蔵野美術大学鷹の台キャンパス
*事前登録不要・入退場自由
https://geisai.jp/
https://x.com/MAUgeisai
https://www.instagram.com/maugeisai/

芸術祭とはいわゆる学園祭のことです。​

ムサビ芸術祭は、​武蔵野美術大学の前身である帝国美術学校が、​東京都から設立認可を受けた1929年10月30日を記念して開催していた「創立記念祭」が源流となります。​研究室の指導のもと、​大学構成員全員で作品展示、​記念行事を企画・公開し、​これらを通じて建学の精神とその発展を広く内外に示すことを目的に始まりました。​

超初期の創立記念祭については、​
【「帝国美術」を読む(1)】宮永芳江「仮装行列記」 | MAU2029 | 武蔵野美術大学100周年ウェブマガジン

こちらの記事で創立2周年記念祭の様子が書かれています。​
当時は仮装行列して、​吉祥寺校から西荻窪近辺まで練り歩いてたそう。​今や吉祥寺は住みたい町ランキング上位に入るような地域になりましたが、​1930年頃はまだ畑ばかりの田舎だったようですね。​武蔵野村が武蔵野町になったのが1928年だから、​それももっとも。​

創立記念祭の歴史を振り返る時に、​必ずといっていいほど使われる写真がこちらです。​

画像提供:武蔵野美術大学大学史史料室

「創立六周年記念祭」とあるから、​撮影年は1935年だと読み取れます。​描かれてるのはアポロンとミューズかな。​「展覧会と余興 廿三日 廿四日」と書かれてるので「土日や祝日が開催日」と仮定したら、​1935年の曜日的には11月23日(土)、​24日(日)じゃないかと勝手に推測しています。​

1935年と聞いて、​「えっ?それって・・」と思った方はさすが。​
1935年といえば、​なんやかんやあって「同盟休校事件」、​いわゆる学生ストライキが発生し、​多摩帝国美術学校(現 多摩美術大学)と帝国美術学校に分裂した美術業界でも歴史的な年なのです。​この「なんやかんや」の歴史解釈がタマビとムサビでは違ったりするのですが、​最新の研究で当時の関係者は心の中では元通り一つの学校に戻れるのを願っていたことがわかってきています。​
同盟休校事件については今後詳しく書かれるはずなので、​今日はこのへんで。​
そんな大変な時にも創立記念祭をやってたんですよ。​なんか感動しません?

画像提供:武蔵野美術大学大学史史料室

こちらは1950年に撮影されたもの。​多分上述の仮装行列の1シーンだと思いますが、​プラカードに「武蔵野美校祭」という文字を発見。​当時は「武蔵野美術学校」だったんです。​

・・と、​このまま芸術祭の歴史紹介で終わるのもなんなので、​Google Gemini(以降Gemini)を使ってカラー化してみました。​

1950年の写真をGeminiでカラー

AIが自動彩色してるので、​本当の色ではないことはご了承願いたいのですが、​カラーにすると読めなかった文字が判読できるようになったり、​獲得できる情報量が増えたり、​面白いことに「大(自分とは関係ない過去)の写真」から「ちょっと昔(自分とも関係する過去)の写真」に感じられるんですよ。​
この写真も、​棺桶(?に担ぎ棒をつけて神輿状態で運んでいたのがカラー化で理解しやすくなりました。​
しかし、​これってほぼハロウィンですよね。​さすがムサビ生は時代を先取りしてる。​

そして、​「創立記念芸術祭」「芸祭」と変遷していくのですが、​当時は作品制作・展示はカリキュラムの一環として行われ、​課題作品を教員が評価し単位認定していました。​
う。​芸術祭で単位が出てたんです。​これを聞くと「え。​芸術祭に参加して単位が出てたの?」と羨ましく感じる学生さんもいるんじゃないかな?

画像提供:武蔵野美術大学大学史史料室

こちらは1968年の芸術祭の様子。​
これをカラー化するとこうなります。​

1968年の写真をGeminiでカラー

近隣の小学校や三鷹の明星学園からもテントを借りてきてますね。​右下の工事現場は8号館建設のための資材かな?(8号館は1969年竣工)。​
後ろの建物からここがどのスペースがわかった方もいると思いますが、​同じ場所から撮影するとこうなります。​

7号館屋外階段から2025年撮影

現在12号館が建っている場所なんです。​
12号館が建つ前はここに模擬店がひしめき合ってたんですよ。​12号館は手羽が学生の時に建ったので1991年竣工)、​ギリギリこの雰囲気を経験している人間だったりします。​

だ、​平和そうな1968年の芸術祭風景ですが、​『武蔵野美術大学六〇年史』によると、​1966年頃からある火種がプスプスと発生していたよう。​
それが何かというと、​こちらをご覧ください。​

■宮本常一が振り返る1968年10月の学生ストライキ | MAU2029 | 武蔵野美術大学100周年ウェブマガジン
学生大会準備風景 1968年(画像提供:武蔵野美術大学大学史史料室)

詳細は上記記事を読んでもらうとして、​手羽的解釈で超要約すると、​「カリキュラムの一環で単位が出る」ということは「教員による作品評価(大学管理)」ということであり、​学生は自由な制作・表現の場を求めて、​大学側と激しい議論が起きていたのです。​
ギリギリ1967、​68年は芸術祭を開催することができたけど、​1969年は学長交代、​ロックアウト(大学閉鎖)と芸術祭中止、​1970年は芸術祭中止のみならず、​卒業制作展と卒業式も行われませんでした。​
単位が出ることよりも、​学生自治による自由な芸術表現活動を先輩たちは求めて活動し、​それを大学側から勝ち取ったのが現在の芸術祭なのです。​今も大学側は協力体制は取るけど、​あくまでも学生自治を尊重するスタンスなのは、​これが理由なんですね。​

この写真もカラーにすることで、​

1968年の写真をGeminiでカラー

そんなに昔の話ではない、​近い先輩たちの活動だったと感じてもらえれば。​

1970年以降の芸術祭を紹介すると、​

画像提供:武蔵野美術大学大学史史料室

こちらは1973年の様子。​手前の「窯一」は窯工部の模擬店です。​
これもカラーにしてみました。​

1973年の写真をGeminiでカラー

この外観からもわかるように、​さすが美大というか、​模擬店を1から建てる文化があって「3階建ての模擬店」なんかがそこら中に営業してました。​手羽の学生時代にもまだあり、​3階の屋根裏でお酒を飲んでたのをよく覚えてます(当時は飲酒OKだった)。​
ラーにすることで奥の「サシミ 天プラ」の文字がはっきり判読できるようになりましたね。​芸術祭で刺身を食べるってちょっと勇気がいるなあ・・もちろん今じゃ完全NG(笑)

画像提供:武蔵野美術大学大学史史料室

これは1976年の様子。​
原画もカラー写真だけど、​鮮明にするためにこちらもGeminiにかけてみました。​

1976年の写真をGeminiでカラー

どこかわかるかしら?
同じ場所から撮影するとこうなります。​

2025年撮影

現在10号館が建ってる場所。​10号館ができる前は石彫場やプレハブ校舎があり、​ここに模擬店が乱立してたそう。​
当時の細い若木達が50年で大きく成長してますね。​

最後は1978年の写真を。​

画像提供:武蔵野美術大学大学史史料室

ムサビの芸術祭といえば、​彫刻学科の男女神輿がその1つに挙げられますが、​成り立ち含めて面白いエピソードがいろいろあるので、​これについてはまた別記事で紹介させてもらいます。​もしくは油絵学科・袴田先生、​彫刻学科・冨井先生、​共通彫塑・戸田先生、​CI学科・山本助手による彫刻学科卒業生の神輿対談とかどうですかね?>編集部

成・令和のムサビ芸術祭については来年9月に紹介します!

手羽イチロウ

ば・いちろう

武蔵野美術大学造形学部彫刻学科卒業。​

2003年にムサビ生ブログサイト「ムサビコム」、​2009年より「美大日記」を運営。​2007年『ムサビ日記リアルな美大の日常を』を出版。​全国の美大情報を毎日チェックしつつ、​PARTNER_WEBにて理想の美大を目指すテイの「手羽美術大学★」を連載中。​