戸谷さんへ
田中正之(客員教授、独立行政法人国立美術館理事長)
「戸谷さんほど理知的な美術家はなかなかいないのではないか」。初めて戸谷さんとじっくりと話しをしたのがいつのことだったかはもはや全く覚えていないのだが、その時に受けた印象は今でも鮮明に残っている。自分の作品のみならず、他の作家の作品についても、とても論理的かつ具体的に論じられ、作品をどのように解釈するか、その考えには大いに刺激を受けた。
戸谷さんは、彫刻を一度は終わったもの、解体されてしまったものと捉え、ではどのように再構築すればいいのか、という問題を突き詰めながら制作されていたように思う。戸谷さんはつねづね彫刻をどのように作るかについて語られていたが、では彫刻をゼロからやり直すために何をすればいいのか、それを問い続けていたのだろう。私自身は、戸谷さんの制作を「現れ」の彫刻として捉え、戸谷さんの退任展の図録にそのことをめぐる論考を書かせていただき、執筆にあたっては、長時間にわたるインタヴューを二度ほどさせてもらった。そこで論じたことをここでは繰り返しはしないが、戸谷さんの思考をたどりながら、戸谷さんの彫刻のみならず、彫刻そのものへの考察を深める貴重な体験であったことは強調しておきたい。それをもう二度と体験することができないのが、何よりも悲しい。しかし、戸谷さんの言葉は、今でも私の中に深く刻み込まれている。これから先も、戸谷さんの強烈な存在感は、作品とともに、長く生き続けていくにちがいない。
戸谷さんへの感謝と哀悼の意を込めつつ、心よりご冥福を祈りたい。
(2026年7月31日)
作家 戸谷成雄によるギャラリートーク
はじめに
作家が自分自身の作品を解説するというのは、なかなか難しいものがあります。日頃は作品をいろいろと重層的に考えているものですから、これを話すとなると、どうしても何かを簡略化することになってしまい、重要なことが抜けてしまうように感じます。これから短い時間ではありますが、展示作品について何とか話していきたいと思います。
はじめに今回の展覧会は本学の田中正之さん註1にキュレーションをお願いしました。僕としては大学での退任展は、あんまり気乗りのするものではなかったのですが、美術館の企画展として田中さんと北澤智豊さん註2にお願いをして、作品の選定から配置、それから図録を含めた印刷物のテキストなど、全てお任せしました。
POMPEII‥79〈Part 1〉
fig.1《POMPEII‥79〈Part 1〉》1974/1987年 コンクリート 15✕60✕60 cm, 45✕45✕170 cm(4 pcs)
*奥4点は1987年に再制作
この作品は1974年の初個展註3で発表したもので、学生のときにつくりました。作品はイタリアのポンペイ遺跡に起因しており、ポンペイ遺跡の「空洞における実在の問題」が一つのテーマとなっており、彫刻として空洞を象徴的に用いています。今回の展覧会で田中さんは、この作品を僕の彫刻における一つの起点として選んだのだと思います。
イタリアのナポリより少々東へ行ったところにポンペイという都市がありましたが、紀元79年にベスビオ山の噴火によって、全て灰の下に入って埋まってしまいました。18世紀になるとその遺跡の発掘が始まるのですが、地面の底から空洞がいくつも見つかりました。当初、考古学者はその空洞がいったい何なのかということは、見ただけでは分かりませんでした。そこで、その空洞に石膏などを流し込んで固めてみたところ、当時の人間や犬など動物がポジティブな形となって現れました。それは千数百年間、空洞のまま地中深くに存在していたことを示しており、つまりポンペイの地中深くに、消えてしまった人間の「不在」が空洞として残っていたということになります。それがあるとき発掘されることで、積層された時間の中でつくられた「空洞の表面」として出現したということになります。この空洞の表面は、もともと人間の体の表面であった部分が反転したもので、つまり空間と実体における両者の関係が反転した構造になっており、反転する境目である境界は、空洞の表面として現れています。このようなポンペイにおける空洞と実在といった問題を考えながら、この作品をつくりました。
1974年の個展では「関係の領域」、「神話の領域」、「存在の領域」の三つのパートからなる《POMPEII‥79》註4をつくりました。それは学生の頃から、彫刻というものを、そのような三つの領域の問題として考えていたことによります。改めてこの《POMPEII‥79〈Part 1〉》を見ると、これら空洞の問題など学生のときに考えていたことが、未だに僕の作品の中では反芻していて、あまり進歩していないなと感じます。
田中さんが企画した今回の展覧会では、僕の作品における構造の問題、人間の視線、存在すること、見えること、見えないこと、などといったことがテーマとなっていて、この《POMPEII‥79〈Part 1〉》が起点となって展覧会が組み立てられていると理解しています。
雷神―09
fig.2《雷神―09》2009年 木、灰、アクリル、ガラス 932✕170✕155 cm
先端が上に向かって柱状に伸びたこの作品は、垂直性ということが一つのテーマになっています。しかしその柱は単純に垂直に立ち上がっているだけではなく、様々な方向から「傷」つけられながら立ち上っています。その傷を僕は「視線」として考えており、この作品はチェーンソーを使って視線を刻みつけた彫刻であるといえるかもしれません。また視線というものは、単に見る、眺めるということだけではなく、一つの凶器のような働きがあるのではないかと思います。彫刻をつくるとは、その視線を彫り出すことであり、あるいは視線によって彫り出されたものが彫刻である、ということができます。彫刻において、「見る、見つめる」という行為は、武器のようなもので対象を「刻む、射貫く」ようなものではないかと思います。また視線というのは、単なる視覚的なことだけではなくて、ある種の身体性あるいは触覚性というような問題を孕んでいます。視線が触覚性という問題を内包している、あるいは触覚性が視線を内包している、そのような両者の関係の中から、僕は彫刻を考えてきました。
この作品の根元に大きな塊があるのですが、何か特定のイメージがあったわけではなく、脳みたいなものや木の根、あるいは岩の塊、といったようなものと見ることができるかもしれません。僕は橋本平八という彫刻家がとても好きなのですが、そのきっかけは具象彫刻に行き詰まっていた学生の頃、橋本平八がつくった《石に就て》という作品にとても惹かれて、彼のことを勉強したことによります。橋本平八は少し神秘がかったようなところのある人で、《石に就て》という作品では、「仙」というものを表現したと書いてありました。僕はこの《雷神―09》において、「仙」なるものが垂直性の中で降り立つ、ということを勝手な解釈が含まれていますが、そのようなことを考えてつくりました。
また、なぜ《雷神》という名前を付けたかというと、近くの山に、何十年も前に雷に打たれて枯れてしまった木があったのですが、まだその木は立ち続けていまして、その姿は「木骨」というべきか、木の骨が現れたような、とても美しい姿をしておりました。それを見たことがきっかけとなって《雷神》という名前を付けました。もちろん僕はそんな神秘主義者ではないし、神様として雷神を信仰しているわけでもないのですが、何かその垂直性によって、見えないどこか高いところから何かが降りてくる、あるいは何かその橋渡し的な存在のようなものかもしれない、と考えてつくった作品です。
また作品の表面は灰色になっています。これは木を彫ったときに出た木屑を燃やした灰を、木の表面にアクリル塗料や接着剤などと混ぜ合わせながら、もとの木に戻すといいますか、塗り込んでいくことによって灰色に着色します。
《森化 II》《森化 V》《森化 VI》《森化 VII》
fig.3《森化 V》《森化 II》《森化 VI》《森化 VII》2003年 木、灰、アクリル
II: 155✕30✕36 cm, 155✕32✕38 cm, V: 153✕24✕34 cm(2 pcs)
VI: 150✕24✕34 cm(2 pcs), VII: 153✕24✕34 cm(2 pcs)
正面から見ると分かりにくいのですが、作品が壁面に接している輪郭は、人物らしきものの影のような形状となっています。作品をつくるとき、壁面に接する方から彫り始めるのですが、その彫り始めはキュビズム様式のシステムで彫り始めています。
なぜキュビズムかというと、彫刻の長い歴史の中で、近代彫刻以降、従来の彫刻が解体されていくきっかけになったのが、キュビズムであったと考えられるからです。我々彫刻家から言わせると、ピカソらは犯罪的でして、これまで彫刻として単一的な塊あるいは人体として統一されていたものが、キュビズムによって崩れていったのです。そしてこの近代彫刻の解体は、1960年代に入ると終わりを告げたというべきか、彫刻自体が人体あるいはそのフォルムをつくり出すことよりも、身体性を直接扱う領域へと徐々に変化していったと思います。
この《森化》では、壁面に接している側面のキュビズム的表現から出発して、時代を逆行するように、手前へとその形状をバロック化させていきます。あえてキュビズムからバロックへと時代を逆方向に進みながら、その形状を手前へと引き出すことを試みています。《森化》というタイトルから分かるように、それは「森」という一種のバロック性を持ったものへの変様といったことを意味しています。
また対となって隣り合う2点の作品は、一つの太い角材を斜めに三角柱のように2分割した部材から彫り出されています。つまり対称的な形状となる二つの作品を合わせると、一つの角柱形に収まるというような構造になっています。またこの作品では「襞」ということを特に考えており、当然その襞というのはバロックを象徴する造形表現です。また作品は壁に吊された状態にありまして、イタリア彫刻家のベルニーニの《聖テレジアの法悦》(17世紀中期)など、ああいった壁面に設置されたバロック彫刻なども、少し意識しながらつくりました。
洞穴体 V
fig.4a《洞穴体 V》2011年 木、灰、アクリル 220✕220✕220 cm
この箱状の作品は、縦・横・高さが全て同じ寸法の立方体となっており、その側面は内側に向かって人物の影のようなものが、ネガティブな形となって空洞が彫られています。さらに2階から見下ろすと分かるのですが、立方体の内側には別の世界がありまして、その外側から彫られた空洞は、立方体の内側に向かって裏側の側面から突き出た形状となっています。
fig.4b《洞穴体 V》上部より
我々が生存しているこの世界というのは、いったい立方体の外側か内側か……。今、現実に僕らは作品の外側にいるということになるのですが、実際に見ている、見えているのは、ある一面でしかなく、それは外側と思っているだけで、実は内側にいるのかもしれない、というような考えが作品に含まれています。
僕のアトリエは秩父の山と山の間にありまして、そこにいると山が押し迫ってくるような感じがします。山の木々の葉が落ちて木の骨だけになった後、春を迎えてまた葉が出てくると、その葉が僕の方へと膨らんできて、押し寄せてくるような感覚を受けます。自分が普段見ているものの向こう側が、いったいどうなっているのか。経験と想像力、あるいは知識というようなものが、その見えない向こうを思い描かせています。しかし、目で見えているものは、現実に映るものでしかないわけで、その向こうがどのようになっているのかということは、本来は全く分からないのです。ただ、その分からない、目に見えていない、見ることができない、その向こう側に何らかの存在を感じ取るということ、それが彫刻にとって非常に重要で、本質的なことなのではないだろうかと、そのようなことを考えてこの作品をつくりました。
会場マップ
見られる扉 II
fig.5a《見られる扉 II》1994年 木、灰、アクリル、金属網、ワックス、レンズ、漆喰 3,750✕11,000✕31 cm
展示室2は出入り口が左右にありますが、まず右側から入る場合は「訪問者」ということになります。また展示室2の中央にはドアが並んでおり、アパートの扉のようなものと捉えることができます。それらの扉にはレンズが付いており、訪問者がその扉の内側を覗くと同時に、その反対側から「見られている」という構造になっています。
なぜこのような作品をつくったかというと、1990年代前半に旧ユーゴスラビアで内戦がありまして、ボスニア・ヘルツェゴビナのサラエボでは川を挟んで、それまで同じ住民で仲よく暮らしていた人たちが、こちら側と向こう側とで二つに分かれて、銃を突き付け合いながら争っているということがありました。あるテレビのリポーターが、実際に銃を向けている兵士のところに行って、兵士たちに話を聞くわけです。そうすると兵士たちは、敵側がいかに酷いかという話を様々して、リポーターもそれに共感します。しかし、後日リポーターが、迂回して川向こうの相手側(敵側)へ行き、そこの兵士の話も聞きます。そうすると、相手側の人たちの感情にも共感してしまうわけです。この内戦での対峙的な関係において、相手を「見る」ということは、向こう側から見れば「見られる」ということになります。しかし向こう側に渡ってこちらを見る、あるいは見られるということになると、いったいどのような関係が生じるのか。そのような構造を考えたときに、まず日本の中で置き換えて考えると、例えばアパートのドアはのぞき穴を介して「見る、見られる」という関係にあるのではないかと考えていました。
戦争や震災などと悲惨な社会問題を作品として取り上げる表現は、現代美術の中で多く見ることができます。その事象を直接的な表現によって捉えるということも大事なのかもしれませんが、僕はそういう方法はとりたくないと思いました。なぜなら実際に僕は戦争に行っているわけでもないし、単にテレビの画面を見ながら、勝手なことをいろいろ感じているだけなのですから。それよりも社会的な問題を自分たちの生活の中で、視覚の問題というか、「見る、見られる」構造の問題へと、いわば身近な問題の方に引き寄せて作品をつくる方が、ある種、普遍性を持ち得るのではないかと考えました。
fig.5b《見られる扉 II》同上の反対側
この《見られる扉 II》は、対象を見ているつもりが、実は自分のネガティブな影を見ているという構造になっています。いわば敵だと思って見ていたものは、実は自分自身の影(ネガティブ)のようなもので、実際にこの作品の扉の反対(裏側)は、彫り込まれたネガティブな人型が背を向けて立っている形状になっています。
さらにこの作品では、扉の表側から見る眼球と、裏側から見る眼球とが同一化して、向かい合って対峙する二人は、眼球を共有しているという構造になっています。以前、僕もアパートに住んでいたことがありますが、一方的に誰からも見られていないことを前提に、アパートのドア穴を覗き込んだとき、とても嫌な感覚を覚えた記憶があります。それはもう一人の自分によって後ろから見られている、というような感覚だったのだと思います。この作品の「見る、見られる」構造において、私と他者という二項対立による視覚構造だけではなくて、このような違和感をつくり出している、もう一つ別の眼球、「第三の目」というべき視点を持つ必要があるのではないか、というようなことも考えながらつくりました。
ギャラリートーク当日の戸谷成雄先生(撮影:北澤智豊)
1947年12月生まれ、2026年4月15日逝去。享年78。1991年より武蔵野美術大学建築学科の非常勤講師、1996年より油絵学科の非常勤講師を務め1999年より客員教授となる。2006年より彫刻学科教授(2011年–16年主任)、2018年3月定年退職、同年4月名誉教授となる。
1970年代より彫刻家として本格的に活動を展開し、日本の現代美術を牽引してきた。美術の文脈のなかで「彫刻」という概念を再構築し、その本質を問い続けた。1988年朝倉文夫賞受賞、1995年平櫛田中賞を受賞、2004年芸術選奨文部科学大臣賞受賞、2009年紫綬褒章受章、2025年旭日小綬章受章の他多数。主な展覧会に、海外ではヴェネチア・ビエンナーレ(1988年)、光州ビエンナーレ(2000年、アジア賞受賞)などがあり、また、国内では1970年代以降、全国の美術館等で数多く作品が紹介されている。2017年武蔵野美術大学 美術館·図書館にて個展「戸谷成雄―現れる彫刻」を開催。近年では2022年から2023年にかけて長野県立美術館と埼玉県立近代美術館にて巡回展が開催された。