射影体

この作品は影の問題が主なテーマとなっております。僕らの世代だと、高松次郎さんに影を扱った作品が多くありますが、その考え方は絵画的なところから来ているといえます。しかし僕の場合は彫刻的なところから、影という問題を扱おうとしています。
古代ローマ時代にプリニウスという博物学者によって書かれた『博物誌』の中で、絵画の発生における問題として、影について記述している次のような一節があります。青年が長い旅に向かう前に、恋人である娘と一夜を過ごすのですが、娘は青年との別れを悲しんで、その最後の晩に蝋燭の光によって壁に映し出された青年の影をなぞりました。娘はその後、描かれた青年の影を見ながら毎夜涙するわけですが、その影がいわゆる絵画の始まりになったというようなことが書かれています。さらにその話には後日談があって、あまりにも娘が寂しがって泣くので、見るに見かねた陶工の父親が、その影をもとにして青年の像をレリーフ的につくって、娘を慰めたというような話があります。この作品はそのような話から着想しています。
この《射影体》
《境界》から V(前半)

この作品をつくろうと思ったきっかけは、
まずそれを言語の問題として再構築することを試みました。言語の原初的なテーマとして、例えば激痛を感じたときに出る「あ
感嘆詞から名詞の方向を眺めてみる。その一方で、逆に名詞から感嘆詞の方向へと想像してみる、見つめ直してみる。この作品は酒鬼薔薇事件のような大きな衝撃、つまり感嘆詞的なるものが、どのように構造の中で名詞化されていくのか、というようなことをテーマにつくっています。

まずこの作品の正面から見える大きな穴は、いわゆる感嘆詞的な部分ということになります。それから本来の展示註4ですと作品の横に専用の狭い通路をつくって、その通路を抜けていくと向こうの裏側に続くという構造になるのですが、今回の展示ではスペースの問題もあり、作品の裏側へと進んでいくまでに、いくつか作品を見ながら向こうの裏側に抜けていくことになります。この作品の裏側の話は、見える位置まで移動した後に続けたいと思います。

《境界》から VI

作品のつくり方として、まずはベースとなる直方体の集成材を2本用意します。次に下部になる直方体の表面に、斜線をランダムにいくつも彫り込んでいきます。その次に下部の斜線部分をトレーシングペー
この作品における斜線は「視
なお当初この作品の下半分の直方体部分は一体となっていました。しかし搬入等の問題から下の直方体を四つに分割して、それを展示会場でつなぎ合わせるようにしました。
洞穴体 III

(1)1
この作品は僕のアトリエがある秩父地方の地図をベースに、自然の地形をテーマにした作品です。はじめに秩父地方の地図上に、何となく何かがありそうだなと思うようなところに印を付けたりしながら、地図上にドローイングを何度も重ね描きしていきます。それによってできたドローイングをベースに、レリーフ状に彫っていきます。それが作品正面の垂直平面部分となります。

次に裏側から見える塊のような部分は、僕が屈んだり、座ったりしながら壁に耳をつけた姿の輪郭がベースになっており、その輪郭から手前へと徐々に北宋画の山水のような形に変化していくかっこうとなっています。逆に裏側からこの作品を見ると、人が地面の音を地下から聞くように見てとることもできます。
表側には1カ所穴があいていて、その穴は裏の塊における耳にあたる部分へと貫通しています。その穴は奥まで彫られており、手を穴に入れると、耳から人の内部へと手を入れたような格好になります。三木富雄さん註5という耳の作品をずっとつくっている僕の好きな彫刻家がいます。三木さんの作品は、直接的に耳を引き抜いたような表現になっていますが、僕の作品は地面の裏側から耳をすまして声を聞くことによって、自分が「森
重層体Ⅰ

この壁面的な作品は、表現形式の違う三つの層からなる構造になっています。まず正面に見える1層目は、表面は平面的な表現になっていますが、その裏側は垂直水平のグリッドと斜線の構造によって彫られており、いわゆるモダニズム絵画の構造性を持っています。次に真ん中の2層目は、平面的な絵画からレリーフへと向かっていく働きと、レリーフから立体的な彫刻へ展開する働きとの境界として、絵画と彫刻の中間的な表現となっています。最後に裏側の3 層目は、壁面から隆起した襞が彫られ、立体的で彫刻的な表現となります。絵画的な平面性から、厚みのあるレリーフ的なもの、そして立体的な彫刻へと枝分かれする構造あるいはそれらが変化する過程を、3層に分けて重層化させた作品ということになります。
「彫
《境界》から V(後半)

正面の壁面に見えた穴[fig.7a]
この作品は向こう側(作品正面側)から、ずしんと来た衝撃を、空洞になっている太い八角形の柱状部分で受け止めて、その先の細くなって伸びている先端まで、その受け止めた衝撃が続いている、という状態を表しています。この感嘆詞的な衝撃は、先端部分で何か名詞的なというか、あるいは概念的なものへと変様しながら、その過程で意味的な受容を行う、というような構造になります。ただし、これを彫刻として考えた場合、仕組みを示すだけの模型的なものでは不十分で、その構造を彫刻作品として実現するには、このくらいの大きさ註6にする必要がありました。
コンセプチュアルアートが現代美術の中心的な存在となっていますが、ある事象を概念的に捉えることで視点を固定するのではなく、感嘆詞的な方向から名詞的、概念的なものの方向へと見る。あるいは概念的なところから、感嘆詞的なところまでを、逆方向から想像的に見る。このような複数の視点によって見えてくる関係性、またはその中間的な境界といったところから、表現あるいは彫刻というものが生まれてくるのではないかと考えて、この作品をつくりました。
今日は僕の好きな詩人の方たちが何人か来てくれていますので、言語の話なんてすると、何を言っているのだと怒られてしまいそうですが、そんなことを考えてつくった作品です。
双影根 I〈クマノ〉

最後の作品になりますが、この作品も地図をベースに、熊野の地形が一つのテーマになっています。作品の左半分において盛り上がっている部分は、熊野川によって浸食された台地にできた川筋を反転させた形状で、木の根のように凸状に彫り出されています。左半分から続く川の流れは、右半分に入ると裏側へ潜行し、その川の形状はさらに反転して、凹状に彫り込まれた形となります。一方その右半分の表側の面には、穴が点在しているのですが、それは川を裏側から彫った際に表側の面まで貫通した部分が見えていることになります。
先ほど見てきた《POMPEII‥79〈Part 1〉》や《《境
この作品は熊野川がモチーフになっておりますが、熊野は木の国、根の国ともいわれています。川はいくつもの細い支流から本流につながっていて、最後は一つの海に出ます。それは木の根が幹から這い出る構造と同じではないかと思っています。この熊野川の川筋を反転させて、木の根のような構造となっているこの作品は、中上健次註7に少々敬意を払って言えば、
おわりに
この展示に出ているのは全て僕の作品ですが、田中さん、北澤さんの考えた、いわば彼らの展覧会です。世間的には僕の代表作である《森》シリーズは出品されていませんし、また他の出展作品も僕の考えによって構成されたというわけではありません。あえて言えば手元に残った山のようにある作品の中から、これらを選んでもらったといえるかもしれません。
この展示について、田中さんのある種の近代的な造形思考を僕なりに感じました。今回展示しなかった《森》シリーズの中には、僕の中のもう一つの面、いわゆる近代的な造形思考というものとは少し違う考え方、感じ方で、日本的な感覚と言ってもいいかもしれないですが、何かそういった土着的な感覚みたいなものがあります。田中さんとしては僕の彫刻を、あまりそういったものとして、見せたくないと考えたのではないかと思います。
今回そのようなこともあり、田中さんは《見られる扉 II》を視線の構造を示すものとして、その作品を中心軸に展覧会を組み立てていったのではないかと思います。僕としてはそれなりに満足できると言ったら生意気ですが、企画として意義のある何か筋の通った展覧会にしてもらえたと思っており、とても感謝しています。
最後に一つ付け加えて、これまでここの美術館の退任展のカタログを見ると、どうも立派なものが多いように見受けられるのですが、僕のカタログ註8は大きくて豪華な画集のようにはしたくないと思っていました。そのような訳で今回のカタログはサイズも小さく、カラー














