学部の版画クラス、大学院の版画コース開設を後押しした前田常作
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82年、永井先生は版画研究室の非常勤講師になられました。どのような経緯だったのでしょうか。
- 永井
リトグラフは、清水先生のほかにも阿部浩さんが教えていました。
19 82年に清水先生が教授に昇任されたとき、阿部さんが辞められて、代わりの講師として私に声がかかったというわけです。それでメンバーは清水先生、私(リトグラフ)、塙太久馬先生(木版画)、池田良二先生(銅版画)となり、新体制での版画教育がスタートしました。
- 遠藤
僕が課外ゼミで版画をやり始めたときに、ちょうど永井先生が入られて。だから僕は永井先生の最初の教え子なんです。ちなみに、まだシルクスクリーンの先生はいませんでした。課外ゼミでもやっていなかったんじゃないかな。
- 永井
当時、社会的には版画はやや下火になっているころでした。少しさかのぼりますが、19
70年に始まった「版画グランプリ展」というコンクールの第3回(19 72年) で、共通絵画の講師でのちに教授になられた沼沢仁先生が銅版画の作品で賞候補に選ばれました。名称こそ「候補」ですが準グランプリのようなもので、きちんと表彰されました。実は版画研究室以外にも、そういう優れた版画作品をつくる先生がいたんですね。

- 遠藤
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70年代の美術界では、版画は時代の先端を行くメディアというイメージでした。 19 79年まで開催された「東京国際版画ビエンナーレ展」では、版画家だけではなく、版画好きな他ジャンルの現代美術の作家たちがこぞって出品し、賞を獲っていた。だから、日本の版画の歴史と比べると、ムサビの版画の歴史はタイムラグがあって、かなり遅いんです。 当時、多摩美術大学や東京藝術大学にはすでに版画のコースやクラスがあり、それがムサビにできたのは日本の美大のなかで最も遅かったのではないでしょうか。それはやっぱり、ムサビはアカデミズムが強かったからで、油絵学科で現代美術的なものが全然教えられてこなかったことの証でもあります。
転機は19
83年、前田常作先生註が油絵学科教授に着任したことだと思います。前田先生はそれまで京都市立芸術大学で教えていて、版画作品も制作していました。清水先生は理解ある前田先生に相談して、学部の版画クラスや大学院の版画コースをつくることが実現したんじゃないかな。以前は多分、誰も聞いてくれなかった。初めて自分の意見に耳を傾けてくれたのが前田先生だったのではないでしょうか。前田先生はのちにムサビの学長や理事長にもなる方なので、きっと当時から改革マインドがあったのだと思います。 そうして19
86年、油絵学科の3・4年次に版画クラスを開設。同時に前田先生は油絵学科研究室と版画研究室との兼務になりました。

そのとき永井先生はどういう形で関わっていたのですか?
- 永井
そのまま非常勤講師として勤めました。私はその後、
19 88年から19 89年にかけて文化庁の派遣制度でオランダに渡り、ハーグ王立美術アカデミーでリトグラフを学んだんですね。本来であれば非常勤講師はそこで終わりなのですが、清水先生が「オランダで得たことを学生に還元してください」ということで、帰国したあとにまた非常勤講師で呼んでくれました。
遠藤先生はいかがでしょう?
- 遠藤
僕は19
84年にムサビを卒業後、多摩美術大学の大学院で版画を学び、修了と同時にムサビに呼ばれたんです。大学院時代は乃村工藝社という会社のマルチプルアート部門でアルバイトをしていたので、修了後はそこに就職しようかなと思っていたのですが、版画研究室の助手の若月公平さんから「来年版画クラスができるから、教務補助として研究室に戻ってこないか」と声をかけていただいて。ムサビにいれば制作も続けられるし、いいかなと思って戻ってきました。 だからムサビの研究室に入ったのは、ちょうど版画クラスが始まった年だったんですね。クラスとなってシルクスクリーンを教える岡部徳三先生を非常勤講師として迎え、ようやく4版種(リトグラフ、銅版、木版、シルクスクリーン)がそろいました。

版画クラスができたとき、清水先生はどのような様子だったのでしょうか。
- 遠藤
やっぱり、やっと念願が叶ったという感覚ではないでしょうか。フランスから戻られてから、なんとか他大学に追いつきたいといろいろやってきた。本当に、ようやくスタートできた、自分の学生が持てたみたいな感じだと思います。1年目から優秀な学生が集まって喜んでいました。現在、グラフィックアーツ専攻で教えている高浜利也教授も最初の年の学生です。
- 永井
だからこそ、
19 96年に清水先生が突然亡くなられてしまったときは、みんな大きなショックを受けましたね。

リトグラフならではの魅力
おふたりは集中授業で初めて版画に触れ、その後本格的にリトグラフ制作の道に進まれました。版画やリトグラフの魅力はどのようなところにあるのでしょうか。
- 永井
私はムサビを卒業したあと、課外ゼミに出入りしていたほかの3人の学生と共同で版画工房をつくりました。なぜ、版画にそこまでのめり込んだかというと、やはり学生時代に非常にアカデミックな教育を受けたことが大きいと思います。当時はね、“ムサビ調” というのがあったんですよ。ベタベタと、茶色っぽい絵を描くというものです。そういう作品を描くと先生たちに褒められるのですが、私の肌には合わなかった。
その点、リトグラフは色彩が鮮やかですよね。非常に軽やかだし、そのなかに深みも出せる。それに、版画では決められたモチーフがありませんでした。なにを描いていいかはわからないけれど、自分で決められる自由さがあるでしょ。同時に「自分はなにを描きたいのか」という究極の問いをせざるを得なくなる。それがとてもよかったのです。
それとね、版画の場合、1版刷ったあとにそれを見て次の版をどうしようか検討できるわけですよ。ここの線はいるのか、いらないのかとか。そのうえで、消したりトーンを薄くしたりと調整ができます。私はきちっと下図を描いて、それに沿って完成させていくというタイプではないので、次の一手を出すまでに時間をかけられる。ゆっくりつくれることは、いまでもいいなと思いますね。

リトグラフ(石版)
- 遠藤
僕の場合は、4年生までずっと油絵を描いていて、卒業制作も油絵でした。リトグラフは合間に時間を見つけて取り組むような感じです。
そんななかでリトグラフを好きになったきっかけは、オディロン・ルドンの展覧会でした。カラフルな油絵が続いたあとに白黒のリトグラフ作品が数点あって、それを見た瞬間に、なんていうか「こっちのほうがいいじゃん」と思っちゃって。すごく惹かれて、リトグラフをちゃんとやりたいと思ったんです。
そのあと課外ゼミの友だちがジャスパー・ジョーンズの画集を見せてくれて、リトグラフの作品がもうすごいかっこいいわけですよ。アメリカリトグラフが大好きになって、
3、4年生のころは、課外ゼミの仲間のあいだでアメリカリトグラフの画集がバイブルのようになっていました。リトグラフの調子のきれいな感じとか、版の使い方をそこで学んだという感じですね。

リトグラフ、
いまも受け継がれている “清水昭八イズム”
版画クラスができたあとは、ムサビの版画教育とはどのように関わっていったのですか?
- 永井
オランダへの派遣を挟みつつ版画研究室で非常勤講師を続け、
19 95年に社会人向けのアートスクールである武蔵野美術学園の版画専攻で非常勤講師を始めました。校舎は吉祥寺にあって、すごくいい版画工房を構えていました。おそらく清水先生が監修していると思います。学生にはムサビの卒業生や若い人が多かったですね。生涯教育を目的に始まった学校ではありますが、専門的に勉強したい学生が中心でした。 20 18年に閉校してしまったのは非常に惜しいです。 その後、
20 07年に通信教育課程の教授に着任しました。通信課程の学生は非常に熱心ですよ。通学課程の学生と違って、朝9時からの授業にもちゃんと来る(笑)。というのも、学生は割と高齢の方が多かったんです。若いころに美術をやりたかったけど、家庭の事情でできなかった。歳を重ねて自由になり、経済的にも時間的にも余裕が出てきたからやってみよう。そういう人たちでしたから、ものすごく熱心でしたね。卒業してからも制作を続けている人が多いです。
遠藤先生はいかがでしょうか。
- 遠藤
教務補助のあとに助手になりました。実は、この助手だった5年間っていうのがすごくおもしろい時期で、ちょうど清水先生が「昭八プレス」を完成させたころなんです。世の中で版画を学ぶ女性が増えてきた一方で、それまでのプレス機は力がないと扱うのが難しかった。だから片手でも刷れるぐらいのものをつくるというのがコンセプトで、いまでもムサビの版画工房で稼働しています。

清水先生は、版画の未来を見据えていろいろなことを考えていました。助手時代によく言われたのは、
「これからはコンピュータの時代になるから、遠藤さんはコンピュータを学びなさい」 と。それで、Macintosh IIsiを導入しました。研究室にパソコンを入れたのは学内で2番目ぐらいの早さだと思います。いまと比較するとすごく低スペックで、画像処理にはとても向かない代物だったのですが、それがきっかけで僕はいまでも制作にデジタルを使っています。それも清水先生の先見の明のひとつかもしれません。 また
80年 代、教育現場ではリトグラフで使う石版をアルミ版に切り替えていきました。大勢の学生に教えるうえで、石なんかを磨いていたらとても間に合わないし、印刷屋さんも金属版に変わっていっていたので、もう石版は必要ないみたいな感じだったんですね。だからほかの学校では石版を廃棄したところが多かったのですが、清水先生は「捨てずに取っておきなさい」 と。授業ではアルミ版に切り替えましたが、その後永井先生がオランダから帰国したことをきっかけに、あらためて大判の石版を購入するなど、再び石版が復興していきました。

- 永井
ブラシ研磨機もつくろうとしていたよね。
- 遠藤
そうですね。アルミ版は研磨しないと使えないのですが、実はその研磨をする職人さんがいま日本に1人しかいないんです。その方がいなくなると、海外から高いアルミ版を輸入しなければならなくなるので、版画を教えている学校や版画家のあいだで大きな問題になっています。清水先生はこの状況も予見していて、研磨機を開発していました。
19 90年代なので、 30年以上前でしょうか。
- 永井
数年をかけて試行錯誤を重ねている最中に、突然亡くなってしまった。開発の途中でしたから、精度はまだまだでちょっとスジが出てしまうような状態でした。
- 遠藤
清水先生は、そんなふうに新しいものと旧来のものを等価で見る視点を持っていて、それはいまに至るまで受け継がれています。清水先生が最初に描いたビジョンがなければ、版画クラスが版画専攻になって、さらにグラフィックアーツ専攻に変わっていく流れはきっとなかった。新しいことに取り組みながら、古いことも捨てないというグラフィックアーツ専攻の考え方のベースには、間違いなく “清水昭八イズム” があると思います。













