画家を育てるのではなく「生きる」を鍛える教えの場
僕は北海道の生まれで、当時は今日のように美術大学に関する情報がほとんどなくてね。ムサビの実技専修科(以下「実専」)を選んだのも、入試がデッサンの実技と、油彩の持参作品についての記述と、志望する想いを綴った文章だけだったことが大きな理由でした。ほかにこのような入試の美術の学校を知らなかったんです。のちに師となる山口長男先生註1のことも、入学するまで知りませんでした。
僕は実専の第4期生で、1965年に入学したときは一部の日本画・彫刻専修と二部の油絵専修は学生の募集を停止していました。僕が入った油絵専修は30名が定員だったかな。実際には35名ほどいた。浪人した人が多く、現役で早生まれの僕が最も若かったので、ほかの学生が実際以上に年上に見えました。日本全国からだけでなく、先輩には朝鮮や台湾からの留学生もいましたね。
入学してみると、はじめは教室がプレハブの小屋で、西洋美術史、日本東洋美術史、文学、哲学、解剖学、フランス語、体育の授業が必修でした。高校時代の授業と違って意外とおもしろかったな。
実専は別科なので大学の卒業資格がありません。僕は経歴を書くときは「卒業」ではなくあえて「修了」という言葉を使います。修めただけであって、なんだか卒業したっていう意識がないんだよね。
インタビューは東京・武蔵村山市にある池田先生のスタジオKAFUで実施した
実習主体の授業で描いていたのは、透き通っている一升瓶と、角ばった大谷石、それから円柱形の壺などの静物です。山口先生は自分で考えろとか、背中で語るとかいうタイプではなく、30人くらいいる油絵専修の学生一人ひとりを指導していました。1年生のときはデッサン、2年生は油絵。同じようなことを繰り返しやったね。お習字と同じで、鍛錬。絵を描くというよりは、形をつくることだったり、継続のための呼吸の仕方を教えてもらったような感じで、3年間の時間を通してものの在り方を学ぶんです。絵描きを育成するのではなく、美術の実践を通して「生きる」を厳密に鍛える教えの場でした。
いまだったら学生のうちにいろんな挑戦をしろと言うんだろうけど、当時の実専は公募展などに出品してはいけないという内規がありました。僕はそれを知らなくて、第35回独立美術協会展に《史実》というタイトルの油絵を出しちゃったのよ。そしたら、入選しちゃった。
出品してはいけないと知ったのは、同じ独立展に入選した当時助手の吉田孝次郎さん註2にそう聞いたからです。要するに、やっぱり実専は根源を求めることを教えているのであって、展覧会に入選することとか、絵で食うことを教えているんじゃなかったんだね。
1965年、実技専修科の指導陣と新入生たち。最前列の右から2人目が吉田助手、6人目が山口先生、8人目が有光次郎学長、最後列の左から3人目が池田先生
先生と同じことをしていたらダメだというのは、あとから言語化できたことです。先生は「私と同じことはしないでください」とは、言葉ではもちろん言わなかった。けれど、繰り返し先生のやり方を教わるなかで、真似をしていては自分の作品はつくれないということが逆説的にわかっていった感じでした。
僕が1983年にムサビの油絵学科の非常勤講師に就いてから接した西野達郎さんや山口啓介さんは、実専の最終期に在籍していた学生です。彼らもやはり、僕が習った先生を意識していました。だから実専で学んだあと、僕とは全然違うことをしていたよ。まさに実専が育んだ、次世代の新しい美術や表現を切り拓く精神を実践したね。
ただ、山口先生が退任された1974年ごろから、社会の流れとして、だんだんとそういうものが求められなくなっていった。大学の卒業資格や教員免許状が得られないことに不安を持つ学生も増え、実専は1986年に24年間の歴史を閉じました。
授業でモチーフについて説明する山口先生
実技専修科での大切な出会い
先生はいつも煙草を手にしていました。指導で話に力が入って指のすぐ近くまで火がくるほど短くなっても、ずっとね。当時は教室も禁煙ではなかったので、講評会でも先生も学生も吸っていたんです。
そんなふうにしながら先生がよく話していたのは、フランス時代の話です。1927年に東京美術学校を卒業して、フランスに4年間滞在したんだよね。先生は時間を惜しまず話す人で、突然訪ねてきた学生からの相談も拒否することなく、じっくりと応えていました。
そんな先生の軌跡を辿るように、ある程度、親に経済力がある人は、みんな実専を修了してすぐにフランスへ行ったね。もちろん僕はすぐには行けず、1981年に渡英した際にパリとエクサン・プロバンスを訪れることができました。
教授陣や助手の人、同窓生とはよく酒を飲んだよ。山口先生は鷹の台の「天平」とか、浜松町にある焼鳥屋が馴染だったな。「助手の仕事は酔っ払った先生を自宅まで届けること」なんて助手さんが言っていた。山口先生はそのあたりをきちんとわきまえていたから、酔い潰れることはなかったけどね。
山口先生はすごくおしゃれだった。ただし、自分で買ったものじゃないんだよ。鹿児島県出身で、二科会で一世を風靡した洋画家の東郷青児からもらったものだと、後年、貴代夫人が言っていた。メッシュの革靴とか、当時じゃ考えられないデザインのものを身に着けていたね。そのおしゃれの背景に、気骨のある人だからこその人との深い交流があったのだと思います。
それから、非常に女性的で優しい文字も印象的ですね。
この紙片は山口先生が死の直前、病院に入院する際に自宅玄関に掲げた来訪者へのメッセージ。「山口 内」とあり、本来「内」は妻が書いたことを意味するが、先生本人が最後に書いたもの
学生時代を語るうえでは、当時助手だった吉田孝次郎さんの存在も欠かせません。僕の10歳上で、実専の前身である武蔵野美術学校で学び、その伝統的な精神を伝えてくれました。助手をやめたあとは地元の京都に戻り、後に祇園祭山鉾連合会の理事長になった。後祭を復活させ、ここでも本来の伝統について考えました。
必修授業に京都・奈良での古美術研究旅行があり、孝次郎さんは僕らに助言してくれました。当時僕は20歳で、夏のいちばん暑い時期に九体仏の浄瑠璃寺など古寺を巡ったこの旅行のことはよく覚えています。また、卒業式のあとの旅行で再び京都を訪れ、孝次郎さんの実家である、京六角の明治時代からの町家に泊めてもらったりもしてお世話になりました。
ほかにも在学中は、当時のムサビの理事長であり、大学の発展に大きく寄与した田中誠治さん註3とも、学生でありながら付き合いがありました。ふらっと教室に来て「お前、今日空いてるよな」とか言って、よく新宿まで連れて行かれたね。帰りはだいたいタクシーで、僕は国立に住んでいたから田中さんが先に杉並で降りて、運転手に「こいつを送り届けてやってくれ」と伝えてくれて。また、銅版画ではじめての個展をした1978年に画廊に足を運んでくださって、「お、やっているな」と。そういう光景が印象的ですね。
僕はムサビを出たあと、実専出身者ではじめて文化庁から派遣され、1年間ロンドンを中心にヨーロッパに滞在し、アメリカを経由して帰国しました。帰国後は職を持たず切羽詰まった生活状況にあったのですが、田中さんはそんな状況を気にかけてくれて、「来年からムサビに来ませんか」と声をかけてくれてね。それで油絵学科の非常勤講師になれたんだ。でもちょうどその年、1983年4月27日に山口先生が80歳で亡くなった。

山口先生は「立体を包んだ画工」
山口先生のことは、僕は長いことわかりませんでした。
ただ、先生の師である藤島武二の存在が非常に大きいと思っています。
実専の授業での人体デッサンを思い起こすと、普通は人体を描く際はモデルにポーズをとらせるけど、そうではなく、自然で素朴な「立つ」「座る」「寝る」が基本姿勢。古典のヴィーナスの絵を見ると、へその真下の位置に足のかかとが来ていて、自然な重心になっていますよね。ヴィーナスのように自然な姿を描くというのは、藤島武二が実践したやり方なんです。山口先生の指導においても、それが受け継がれていて、ごく自然な姿勢をとった人物を描きました。
山口先生はヨーゼフ・ボイスとも共通点があると思うね。ボイスは1960年代から1980年代にかけて活躍した、ヴィルヘルム・レームブルックを師としたドイツの現代美術家・彫刻家で、山口先生とは世代も違うんだけれど、同じようなことを言っていてね。1984年に東京藝術大学で行われたボイスと学生との対話集会で、ボイスは「世の中は彫刻」だと発言した。一方で山口先生は、「物事は立体」だと言ってたんですよね。
僕が銅版画を始めたときも、先生はリトグラフなどの平版画ではなく、「銅や鉱物のような硬いものに凹凸の立体を彫るのはいいね、その触覚を大事にしなさい」と言ってくださった。
池田良二《The Vestiges Wind 風の遺構》2001
銅版、フォトエッチング、アクアチント、ドライポイント、雁皮刷り
100✕74 cm(125✕93 cm)大川美術館蔵
先生自身も、ある時点からキャンバスではなくパネルに描いていました。ペインティングナイフを使って、ヒトが古代から続けてきたノミで石を削るようなことをしていたね。それは左官屋の仕事のように見えたりもするけど、決して画家が描いた平面じゃなく、言うなれば画工による彫刻だったんじゃないかな。
山口先生は京城府(現・韓国ソウル)の出身で、19歳のときに東京に来たそうです。
僕は、1990年に「第7回ソウル国際版画ビエンナーレ」でグランプリを受賞したときにはじめて山口先生の生まれ故郷であるソウルを訪れ、その土地で呼吸してみて、やっと「山口先生ってこういう人だったのか」とわかった気がしました。
山口長男《互》1965
油彩、板 180✕180 cm
武蔵野美術大学美術館・図書館所蔵
あくまでも僕の推察だし本人の意思とは違うだろうけれど、ポジャギという韓国の伝統的なパッチワークの風呂敷を見て、山口先生の作品に表現されたその質感(マチエール)と形態の面から、山口先生はこれだなと感じたんだよ。ピート・モンドリアンの絵のようにも見えるけれど、ポジャギで「包む」という行為が、先生の作品に通じているのかなと。それに、韓国の風土や色彩に基づく基層文化にある赤茶色や黄土色の地層が作品の根底でつながっているのではないかと感じました。
つまり山口先生は単なる平面の絵描きではなく、ポジャギの構造のように、立体を包んだ画工なんだと思う。それが僕なりの解釈です。
実専での日々を振り返ると、表現と向き合う胆力や表現することの喜びとともに、生き方そのものを教えてもらった感じがする。
学生時代の僕は決して山口信者ではなかった。でも、山口長男先生こそが無二の「先生」であったと、いま思っています。
山口先生(左)と池田先生(右)。1981年6月、佐谷画廊にて。撮影:佐谷和彦
1947年、北海道・根室生まれ。1969年、武蔵野美術大学実技専修科研究課程を修了し、1979年、「第14回現代日本美術展」京都国立近代美術館受賞。1981–1982年、文化庁派遣芸術家在外研修員としてロンドンに留学。1987年、武蔵野美術大学造形学部助教授(1992–2017年教授、2017年–名誉教授)。1994年、アルバータ大学(カナダ)訪問教授(1997–1998年客員教授、2000–2005年准教授)。2009年、紫綬褒章受章。2021年、紺綬褒章受章。現在は武蔵野美術大学名誉教授、版画学会名誉会員、一般社団法人日本美術家連盟理事、国際美術連盟(IAA)執行委員。作品の主な収蔵先として東京国立近代美術館、京都国立近代美術館、国立国際美術館、大英博物館など。