有志が集まり始まった、​課外の版画指導

 

まずは、​おふたりが学生だったころの油絵学科の様子や版画の授業についてお聞かせください。​

永井

私が入学したのは1968年で、​当時は油絵学科ではなく美術学科油絵専攻でした。​ビーブーム世代で倍率はすごく高かったですね。​私は2浪したのですが、​ほかの学生も浪人生が多くて、​現役生は少なかったんじゃないかな。​

最初に受けたのは、​水差しとリンゴを描く油絵の授業でした。​その後も静物を描いたり、​人物を描いたり、​それとデッサンも。​大半が目の前に置かれたモチーフを描くという授業で、​正直あまりおもしろくはなかったですね。​

たとえば壺を描く授業では、​壺をよく観察して、​自分なりの表現することが求められましたが、​「どう描いても壺だよな」と思ってしまうと、​もう描けなくなっちゃうんです。​自分を表現するなんてところまでは到底いかず、​形や量感ばかりが気になって。​要するに、​私はまったく真面目じゃなかったということですね。​

教授陣は著名な先生がたくさんいました。​麻生三郎先生に中間冊夫先生、​森芳雄先生村井正誠先生は抽象画でしたが、​ほかの方はみんな具象画だったんです。​抽象画なんか描いちゃダメだという風潮がありました。​先生は週に一度ぐらいアトリエに来ますが、​滅多に言葉をかけません。​すっと入ってきて、​ただ作品を見て回り、​また出ていくというのが常でした。​

講評会でも絵がどうこうとは言われないのですが、​ふたつだけ覚えていることがあります。​ひとつは、​課題で壺かなにかを描いたときに、​中間先生が「君は一生絵を描くと思うから、​こうやって付き合ってるんだよ」と、​それだけ言われて。​う、​すごく恥ずかしかったです。​言葉の背後にあるものを自分で考えろ、​ひいては「なんでこんな絵を俺の前に出すんだ」ということなんですよ。​

もうひとつは、​3年生のとき麻生先生に言われたことです。​3年から担当の先生につくのですが、​抽象の村井先生はすぐに満員になってしまったので、​私は麻生教室に入ったんですね。​麻生先生もやっぱり絵のことには触れず、​「僕は君が将来どうなるのか大体見当がつくけど、​いまは言わないよ」とだけ言われました。​

 

本当は抽象画を描きたかったのですか?

永井

いや、​それすらもわからなかったです。​そもそもなにを描いていいかわからなかった。​具象はしっくりこないなとは漠然と思っていましたが、​だからといって抽象画を描きたいというわけでもありませんでした。​

永井研治先生
 

授業のなかで版画をやる機会はあったのでしょうか。​

永井

2週間程度の集中授業でのみ版画を扱っていました。​教えていたのはフランスでリトグラフ(石版画)を学んだ清水昭八先生註1です。​私が入学した1968年に非常勤講師に、​翌年の1969年に専任講師になられました。​版画の集中授業は抽選制だったのですが、​私は3年生のときに当選してリトグラフをやりました。​

といっても、​版画に強い興味があったわけではなく、​「なんかおもしろそうだな、​ちょっとやってみるか」という程度です。​ただ、​集中授業を受講する以前から、​4号館の隣にあったプレハブ小屋のような版画工房の前を通り過ぎるときに、​中の様子が気になったことは覚えていますね。​

集中授業ではリトグラフ以外に木版画もできたと思います。​銅版画もあったかな。​だ、​清水先生が着任したばかりでしたから、​自分の専門分野であるリトグラフに一番力を入れていたんだと思います。​

1969年は学園紛争のためにしばらく授業が止まってしまいましたが、​収束したあと、​清水先生が課外に版画の指導をしてくれるようになりました。​私は教職課程をとらなかったので、​周りが教育実習に行っている期間に時間があり、​「集中授業で清水先生にわりと褒められたから、​もしかしたら版画をやらせてくれるかも」と思ったんです。​それで頼んだら、​「いよ」と。​その期間が2週間あったので、​集中して版画を制作することができました。​私以外にも2、​3名の学生がいたでしょうか。​大きめの石版でカラーの版画を刷ったりして、​すごく楽しかったです。​

だ、​ほとんどの学生が教職をとっていたので、​清水先生から「版画をやってもいいけど、​それより君、​教職をとらなくて大丈夫なの?」とは言われましたね(笑)。​

ムサビを卒業したあとは、​1974年ぐらいに、​当時油絵学科の研究室に勤めていた田中正秋さんという版画家から「研究室の仕事を手伝ってくれ」と声をかけていただき、​いまでいう教務補助を1年間やりました。​その次の年に清水先生が助教授になり、​版画研究室が開設されました。​

1981年、​清水先生(中央右)による実技専修科の修了制作講評風景

アカデミックな教育のなかで異質だった版画

 

遠藤先生の在学時はどのような雰囲気だったのでしょうか。​

遠藤

僕は永井先生よりもう少しあと、​1980年に油絵学科に入学しました。​すでに麻生先生や森先生は退職されていましたが、​授業の内容は永井先生の時代とほぼ同じです。​大きな石や木の根や壺を描いたり、​学年が進むと人物画をたくさん描きました。​

先生たちの指導スタイルも変わらず、​週に一度くらいアトリエをまわって、​何人かの学生にひと言ふた言、​声をかけて、​もう帰っちゃうみたいな感じでしたね。​

僕は先生に褒められたことが2回だけあって、​それが藤林叡三先生と、​大森朔衞先生。​内容はあんまり覚えていないのですが、​いいことを言ってくれたんですね。​だからというわけではありませんが、​そのふたりの先生のことは作品を含めて好きでした。​に、​藤林先生の幻想的な作風には惹かれるものがありましたね。​

遠藤竜太先生
 

初めて版画に触れたのはいつだったのでしょうか?

遠藤

永井先生と同じで、​2年生の集中授業です。​僕もやはり特別な興味があったわけではありません。​僕のときにはいまと同じく6号館に版画工房があって、​その前を通りがかったときに窓から見えるプレス機とか、​石とか、​そういうものになんとなく惹かれたんです。​それで、​ちょっとやってみたいなと思って。​

版画=エッチングくらいのイメージしかなかったので、​最初は銅版画をやりました。​指導してくれた福岡奉彦先生はすごくよくしてくれて、​実は車をもらったこともあるんですよ(笑)。​もういらないポンコツの車を「誰か乗る奴いるか」って言うから、​手を挙げて。​だから学生なのに車を持っているという、​珍しい存在でした。​

そのあと2年生の終わりか3年生の初めに、​清水先生に版画を教わり始めました。​永井先生の時代からずっと続いていた課外のゼミのような活動です。​正規の授業ではないので単位も出ず、​サークルのような感じ。​版画に興味のある人たちがいろんな学科から集まっていました。​

 

永井先生と似たようなきっかけで版画を始められたんですね。​

遠藤

そうですね。​とにかく版画というものが珍しかったんです。​具象画を描くのももちろん好きでしたが、​みんなが同じことをやっているのがね当時の油絵学科は伝統を重んじる非常にアカデミックな教育で、​アクリル絵具は使っちゃいけない、​紙パレットではなくちゃんと木のパレットを使いなさいと言われていました。​永井先生もおっしゃっていましたが、​具象画が前提なので、​講評会でも抽象画は見たことがありませんでした。​

 

それは当時の時流として、​「油絵は具象であるべき」という考えがあったのでしょうか?

遠藤

え、​時流ではなく、​当時のムサビの教育がそうだったんです。​とにかくアカデミックで、​「学生から抽象をやるなんて早い」という。​先生のなかには抽象画を描く方もいましたが、​「ものをよく観察して描きなさい」というオーソドックスな考え方なので、​必ずモチーフがあるんです。​ただ、​当時はアメリカのペインティングなんかがすごく流行っていたこともあり、​学生も授業以外の自主制作では抽象画をたくさん描いていました。​

 

授業では具象画しか描けなかったことへの反動があったりしたのでしょうか。​

遠藤

私は具象画ですが、​多くの学生にはそれがあったと思います。​清水先生はご自身も抽象画を描いていたので、​表現を限定せず好きにやらせてくれました。​

一方で、​版画に対する姿勢や作業場の掃除に対してはすごく厳しい方だったんです。​課外ゼミの学生たちには、​リトグラフ工房の隅に個別の机が与えられていたのですが、​私物やゴミなどが散乱し、​だんだん部室みたいになっていきました。​そんなある日、​清水先生が来て、​もう片っ端から全部、​床に落としていったんです。​そのまま無言で去っていきました。​

清水先生は後年、​癇癪をおこしたときにグラスを割ってしまいました。​それで手を怪我して握力が弱くなり、​リトグラフをやめたんです。​その後、​ワンマンスキージという道具で、​片手でも刷れるシルクスクリーンに転向しました。​そのくらい癇癪持ちだったんです。​

清水昭八《Chaos de Mer A》(左)《Chaos de Mer B》(右)
2点とも、​1985 リトグラフ 980✕679 cm 武蔵野美術大学美術館図書館所蔵註2
永井

清水先生は、​やっぱり怖いときと優しいときの両方がありましたよね。​

研究室ではよくパリの話をしてました。​清水先生はくじらで有名な和歌山県太地町の網元の息子だから、​フランスに行くときにものすごい額の餞別をもらったそうです。​渡仏してすぐにそのお金でポルシェを買ったとか、​そういう話をよくしていました。​

学生がつくる作品の内容に関しては変わらず自由でしたが、​一方で、​技法や手順については厳格でした。​私は1982年から非常勤になったのですが、​当時のテキストを見ると、​石版画の工程が26あるんですよ。​いまは端折って14、​15工程でやるのが一般的です。​

 

26工程というのは、​伝統的な手法ということなのでしょうか。​

遠藤

そうです。​多分、​当時のフランス式ですね。​清水先生はフランスの美術学校、​コール・デ・ザールで学んだので。​たとえば、​26工程では製版の過程でラズンとタルクという2種類の粉を使うのですが、​ラズンを省いてもつくることは可能です。​国や作家によってもいろいろと違いますが、​清水先生はすごく丁寧にやって、​順序通りやっていない学生を見ると「なにやってんだ」と雷を落とすこともありました。​

註1

清水昭八:1933–1996年。​1956年武蔵野美術学校西洋画科を卒業後、​助手を経て、​1961年に渡仏。​翌年の武蔵野美術学校から武蔵野美術大学への改称を前に、​国際化時代の到来を予期していた当時の理事長・田中誠治の意志を受けフランスに留まり、​海外交流の拠点として国際芸術都市(パリ)アトリエの使用権を確保するために奔走する。​その後、​コール・デ・ザールでリトグラフを学び、​1967年国。​1968年に美術学科の非常勤講師、​翌年専任講師に着任。​1975年、​油絵学科助教授、​1982年には教授に昇任した。​1995年主任教授となるが、​翌年5月に急逝。​5美大展(東京五美術大学連合卒業・修了制作展)発案者でもある。​

註2

本図版の著作権継承者様について調査を行っていますが、​現時点で所在が不明です。​

著作権継承者様御本人もしくは継承者様をご存じの方は、​恐れ入りますが武蔵野美術大学出版局(press@musabi.ac.jp)までご連絡くださいますようお願い申し上げます。​

永井研治

ながい・けんじ

1947年、​東京都・八王子市に生まれる。​1972年、​武蔵野美術大学造形学部美術学科油絵専攻卒業。​1988–1989年、​文化庁派遣芸術家在外研修員としてオランダで研修。​1983年「第14回版画グラン・リ」賞候補1席、​1993年「第22回現代日本美術展」、​1994年「第3回ベオグラード国際版画ビエンナー展」First Prize、​1997年「ポートランド美術館国際版画展」買い上げ賞、​2005年「現代版画の潮流展」、​2008年「第1回イスタンブール国際版画ビエンナー展」、​2016年「はじまりは石/Litho: as All Started Kenji Nagai」など個展やグループ展多数。​1983年、​武蔵野美術大学造形学部油絵学科非常勤講師(–1988年、​1989–1994年、​1997–2000年、​2003–2006年。​1995年、​武蔵野美術学園非常勤講師(–2018年。​2002年、​武蔵野美術大学造形学部通信教育課程非常勤講師(–2006年。​2007年、​同教授(–2018年。​作品の主な収蔵先としてロサンゼルス・カウンティー美術館、​ポートランド美術館、​国立プーシキン美術館、​ベオグラード現代美術館、​町田市立国際版画美術館、​武蔵野美術大学美術館図書館など。​

遠藤竜太

えんどう・りゅうた

1960年、​山梨県・甲府市に生まれる。​1984年、​武蔵野美術⼤学造形学部油絵学科卒業。​1986年、​多摩美術⼤学⼤学院版画専攻修了。​1986年「第16 回日本国際美術展」ブリヂストン美術館賞、​1987年「第55回 日本版画協会展」山口源新⼈賞、​1990年「山梨県新進作家選抜展」山梨県立美術館賞、​1997年「International Biennial of Drawing and Graphic Art, Gyor, ハンガリー」優秀賞、​2007年「Show Me Thai ~みてみ☆タイ~」東京都現代美術館、​2011年個展「Co-exist」SNAP Gallery(カナダ)など個展やグループ展多数。​1988年、​武蔵野美術大学造形学部油絵学科助手(–1993年。​2000年、​武蔵野美術大学造形学部油絵学科助教授。​2002年、​同教授(–現在)。​作品の主な収蔵先としてアーティゾン美術館、​山梨県立美術館、​ューウサウスウェールズ美術館、​ュール美術館、​カリニングラード美術館、​佐久市立近代美術館、​オアハカ州立版画美術館、​南アルプス市美術館、​国立台北芸術大学関渡美術館、​四川美術学院、​台南美術館など。​