「壊れる」ことの意義を学んだ幼稚園での段ボール遊具づくり
齋藤先生は19
74年にムサビに入学されました。ちょうど学科改編で産業デザイン学科商業デザイン専攻が視覚伝達デザイン学科(以下「視 デ」) になった年であり、先生は1期生だったわけですが、入学時にそのことは意識していたのですか?
いえ、まったく意識していませんでした。組織や名前が変わることは、受験生向けにはそんなに大きく周知されていなかったと思います。ただ入学後、
当時は入学後最初に受講する「共通絵画」や「共通彫塑」の期間がいまよりも長くて、学科の専門授業がスタートしたのは、たしか1年生の前期の終わりごろ。ある意味美術大学らしい授業から始まったので、最初は「私、本当に美術大学に来たんだな」という、素朴な感覚を持っていました。
私たちが1年生のときの視デのカリキュラムは、テストケースのようなものだったと思います。というのも、次の年の1年生は少し違うことをやっていたんですよね。在学中、特に1・2年生の基礎教育の授業がだんだんブラッシュアップされていっているなと感じていました。

齋藤先生のこれまでを振り返るうえでは、及部克人先生の存在が欠かせないと思います。
そうですね。視デでは現在「ライティングスペースデザイン」
私は学生時代に及部先生の授業をきっかけに環境デザインに興味を持ち、卒業後は一緒に授業づくりに取り組みました。
及部先生ならではの授業のひとつとして、段ボールで遊具をつくる授業がありました。齋藤先生が入学するよりも前の19
73年から始まったそうですが、その授業を受けたのは何年生のときでしょうか?
3年生のときです。大型の段ボール遊具を制作して、東京・世田谷区にある和光幼稚園に持ち込むというものでした。当時、和光幼稚園の主査をされていた秋野先生という方の賛同があり、実現できたと聞いています。
すごく覚えているのが、子どもたちが壊れた段ボール遊具の切れ端をポケットの中に入れて、大事に家に持ち帰るというお話をきいたことです。和光幼稚園は自由な教育環境であり、「壊
秋野先生は、段ボール遊具は壊れるからこそすばらしい、壊れるという現象は子どもたちの働きかけによって遊びが変化していくことの証拠になるとおっしゃってくれて。和光幼稚園での取り組みは数年間で終了しましたが、その理由は段ボール遊具の性能が上がったことで、遊具が壊れにくくなってしまったからだそうです。なかなか壊れずに前の年の遊具がまだ残っていると、子どもたちの遊び方に影響が出て、秋野先生としてはあまりよろしくない環境になってしまうと感じたんだと思います。
齋藤先生は同級生のみなさんと一緒に、和光幼稚園での活動を冊子にまとめられたそうですね。
はい、そうなんです。3年生が終わるころに及部先生の提案でつくることが決まり、有志の学生5人で半年かけて「遊


4年生の夏休み前ごろから、新たに2名を加えた7名の「遊
それらの記録をもとに、また冊子としてまとめたいねという話になり、卒業した年の夏、第2弾である「続けて 遊べ!子どもたち」を完成させました。私はそのとき大学院生だったのですが、なかには社会人として働いているメンバーもいましたし、後にプロのイラストレー

使われているタイポグラフィが素敵ですよね。
全編、

授業を越えた学生主体の活動へ
和光幼稚園での活動が終了したあと、段ボール遊具のプロジェクトはどうなったのでしょうか?
和光幼稚園の次は世田谷区の「雑居まつり」や養護学校へと展開しました。さらにその後は、学生たちが遊具を持ち込みたい場所に自ら交渉していくスタイルへと、だんだん変化していきましたね。私は大学院を修了したあとの5年間、視デの研究室に教務補助や助手として勤めたので、研究としても学生をサポートしていました。
雑居まつりは、
それまで養護学校のなかでの遊びというのは、どちらかというと療育目的のものに偏っていたので、段ボール遊具はまったく新しいものでした。
その後、どこかでその取り組みを知った都立水元養護学校(現:都立水元特別支援学校)の先生からも問い合わせがあったんです。私はそのとき研究室の助手で、たしかお手紙か電話をいただいたんですよね。その内容を及部先生にお伝えしたことを覚えています。学生たちはすぐに水元養護学校に行って、自分たちでコーディネートしながら進めていました。みんな、遊具を運ぶためにトラックも運転していましたし、けっこうアクティブでしたよ。
あとは、雑居まつりをきっかけに、及部先生が以前からポスター制作などを担っていた劇団「黒色テント68/

そんなふうに、まったく商業的ではない活動にもかかわらず「デザインを学んでいる美大の学生と関われたら、なんか面白いかも」と思ってくださった現場の人たちと学生たちが出会う、すごくいいきっかけになっていたんじゃないかと思います。
ある意味、授業を越えた活動になっていったのですね。
そうそう。学生たちは、単位をもらえるとか、就職活動に活かせるとか、そんなことは全然意識していなかったと思いますよ。自分たちが面白いと感じることを見つけて実行できるような、遊具を媒体としていろいろな人に出会えるような、ゆるやかな枠組みを授業のなかでつくることができていたんだなと、あらためて思います。
でも、及部先生がそれを全部主導していたかというと、そうじゃないなと思っていて。その辺が私の生意気なところかもしれませんが(笑)、及部先生はむしろ学生たちに導かれて新しい授業の展開を楽しんでいたという感覚です。
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象徴的なのが、高島平団地での「空地まつり」のプロジェクト。それもたしか、黒テントの公演をきっかけに現地の子どもの遊び場活動をしている人たちとつながり、学生たちが参加したいと言ったんです。もちろん及部先生もサポートはしていましたが、先生自身がなにかつくるわけではない。学生たちのアクティビティがあって初めて実現するというか、あくまでも住民と学生たちのパワーで実現していました。

















