はじめに
第一号『学友会誌』(1931年12月)には(講演筆記)が並んでおり、講演者の顔ぶれと、時代を予見するかのような内容が目を引く。
今回はそのうちの二点を挙げたい。本誌「後記」によると、筆録はいずれも丹慶俊二が担当している。
- 谷川徹三「日本美学の可能と限界」註1
- 團伊能「日本のヘレニズムに就いて」註2
一般に、1930年代の日本は、西洋化や近代化から距離を置き、日本らしさや伝統を称揚する「日本回帰」の時代に入ったとされる。その負の側面は戦時体制に通じてしまうことになる。一方で、東洋と西洋の差異を認めながら国際的な視野での日本らしさを模索する議論も存在していた。両者はそれに通ずる興味深い例である。
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團伊能「日本のヘレニズムに就いて」の誌面PDFを開く
“華麗なる一族” 出身の講演者たち
谷川徹三は、詩人・谷川俊太郎の父親、また宮沢賢治研究でも知られる哲学者。学生時代には西田幾多郎を慕って京都帝大哲学科に学び、三木清、林達夫らと交友した。
糸井重里「谷川俊太郎、kissなどを語る。」(「ほぼ日刊イトイ新聞」2003年1月21日)に掲載された対談で、谷川俊太郎は次のように語っていた(参照 2026年6月5日)
ぼくはけっこう父親の影響を受けてるのかもしれない。ウチの父親って、哲学をいちおうやったんだけど、ほんとに普通の言葉で書ける人だったの。(略)で、ぼくは、それはいいなとは思ってたの。日本の哲学用語っていうのは、わけわかんないでしょ? ああいうのを使わないで、書けてた人だった。
また『日本近代文学大事典』の解説では「日本のファシズム化の過程のなかで、東西今昔の文化を見誤ることなき公平な展望を失うことがなかった」(瀬沼茂樹「谷川徹三」、ジャパンナレッジ、1984年記)とあるとおり、典型的な教養人、文化人でもありながら、専門や国家を超えた柔軟さと、公正な眼を揺るがすことがなかった。
谷川は後に「教養としての文学」(河合栄治郎編『学生と教養』日本評論社、1936年12月)の中でも、古典の「深さ」と普遍性を強調しつつ、漫画にも「文学へ向ふ芽」があると述べる。昭和11年にあって、流行の映画や漫画を教養に取り込む広い目配りと、古さを感じさせない語り口に驚かされる。
この気質は本誌の(講演筆記)からも指摘できる。
谷川「日本美学の可能と限界」は、「日本的」の語意の曖昧さを適切な自己批判をこめて明言し、「日本的」の定義が歴史的に流動しうることに注意を促している。彼は「日本的といふ概念を直ちに民族性と結びつけて考へることは出来ないであらう」とし、「日本的」の概念は「適当なる限界に於いて」用いられるべきであり、「変化の可能を持つもの」であると述べていた。
続く「日本のヘレニズムに就いて」の團伊能も、著名人を一族にもつ人物である。
彼は團琢磨(たくま)の長男であり、後に團伊玖磨(いくま)の父となる。母校東京帝大の助教授をへて、戦後は貴族院議員や参議院議員、ブリヂストン自転車工業の社長などもつとめた。
團伊能は若い頃にフランス、イタリア、アメリカなどの名だたる美術館を回り、設備環境や経営、展示のあり方を視察した。その成果は、著書『伊太利亞美術紀行』、『パルナスの巡礼』などにまとめられている。その團が、あえて西欧近代には言及せず、本誌にてヘレニズムやギリシアとの親和性を強調したのには理由があるだろう。先に述べた「日本回帰」的な気運にあっては、西洋近代に拠らない日本らしさの自立が叫ばれていたからだ。当時は、西欧近代を乗り越えつつ西欧的なものに学んだ知識人の権威性は保持するために、ギリシア文化へのシンパシーが相対的に高まっていく時期だった。
團伊能著、帝室博物館編『欧米美術館施設調査報告』(帝室博物館、1921年12月/東京大学大学院人文社会系研究科・文学部美術史学研究室蔵)に描かれた展示例
團伊能『伊太利亞美術紀行』春陽堂、1922年10月
團伊能『パルナスの巡礼』大村書店、1924年12月
本誌の刊行から数ヶ月後、1932(昭和7)年の血盟団事件で父親の團琢磨が暗殺されると、團伊能は大学を辞して実業家や政治家の道に転じた。本誌は若くして転身した團の研究者としての側面を窺える記録でもある。観点によっては、当時の緊迫した情勢が、團伊能から美術史学の道を奪った。しかし、彼の息子には作曲家の團伊玖磨がおり、さらに伊玖磨の息子達も学術や建築など各界で活躍した。リベラルな学問や芸術への志向は血筋として受け継がれていたようだ。
伊玖磨はのちに、「父の大学辞任の真の理由は、祖父の急死後の家のために学究生活が続け難くなった事と、大学内での人的トラブルが原因だった」、「家庭に於ける父は、然し、(略)情熱を以て美術を、文学を、芸術を、歴史を、人間を、世界を語ってやまなかった」と記している(團伊玖磨「父―著者のこと」/團伊能『パルナスの巡礼(復刻版)』発行者 團美智子、1979年2月)。
対比的な戦後を歩んだ谷川と團
戦後、谷川は息長く学者として活動し、大学総長や文化功労者となる。一方の團は議員や有名企業の社長となった。戦後も長く活躍した二人のたどった道は、図らずも対照的であった。しかしながら戦前の両者には、共通したテーマが見いだせる。
谷川と團の講演からは、「近代西洋」に対立しながら西洋の影響をいかにして日本らしさと結びつけるか、また、国際的に日本のみを特権化することなく日本の自立性をいかに論じるか、という複雑な問いが透かし見える。「日本的なるもの」への洞察が一般に高まったとされる昭和10年頃よりも先がけて、こうした動きが見られる点は興味深い。
両者の(講演筆記)は、戦争前夜の足音が早くも昭和6年以前に存在していたことを改めて裏づけると同時に、著名人の若き日の情熱を伝えてもいる。『学友会誌(帝国美術)』はその意味でも刮目すべき文献だ。
〔付記〕本記事はJSPS科研費・研究基盤(C)26K03718の助成を受けたものである。
2021年4月、教養文化・学芸員課程 准教授に着任。東京大学大学院人文社会系研究科 日本文化研究専攻博士課程修了、博士(文学)。研究テーマは、日本近代文学における古典文学受容(特に堀辰雄の作品、西洋文学や戦時下との関わりについて)。著書に『堀辰雄がつなぐ文学の東西―不条理と反語的精神を追求する知性―』(晃洋書房、2019年)、漫画原作に遊佐ハルカ『夏目家の三姉妹―吾輩は猫であるの頃―』(少年画報社、2020年)がある。