武蔵野美術大学の学生時代の課外活動について、当時のことを思い出しながら書いてみます。そのためには、高校時代に少しさかのぼる必要があります

中学3年のとき、友人から「人力飛行機を作る部活がある高校がある」と聞きました。「人力飛行機」という言葉にワクワクして、他のことはほとんど調べず、その高校を受験して入学しました。高校3年間はほとんど勉強せず、人力飛行機づくりに夢中でした。制作が佳境に入ると、家にも帰らず体育館や保健室で勝手に寝泊まりしていたほどです

その後、1年間の浪人を経て、1991年にムサビに入学しました。入学式にはあまり意味を感じず出席しませんでしたが、式の後に体育館前で行われていたサークル勧誘はとても賑やかで、見ているだけでも楽しかったです。ただ、入りたいと思えるものは見つからず、それなら自分で作ろうと思いました。

そこで思いついたのが、高校時代に満足のいく飛行距離が出せなかった人力飛行機でした。早速部員募集のポスターを作ってキャンパス内に貼ったところ、20人ほどが集まりました。そこからは忙しい毎日が始まりました。

まずは設計や制作の勉強をやり直し、模型を作っては飛ばす、を繰り返し、少しずつ設計を詰めていきました。形が決まると実機制作に入りますが、ここからが本当に大変でした。素材には軽くて強いカーボンファイバーど、当時「新材」と呼ばれていた高級なものが必要で、スポンサー集めも一苦労。無償で素材提供してくれるメーカーを探して歩き回り、足りないお金は部員みんなでアルバイトして貯めました。部員は総勢20名ほどでした。

人力飛行機設計図(画像提供:筆者)

人力飛行機はとにかく大きく、人間を乗せるためには翼幅が20メートルほど必要です。もちろん分解式にしましたが、制作場所の確保が大問題。学内で課外活動に使える場所は決まっていますが、そこでは到底無理で、許可されていない講義室などを無断で使うしかありませんでした。

学生生活課(今の学生生活チーム)の課外活動の担当であった瀬田徹さんとは、いつもケンカ腰のやり取りでした。私がカウンターに近づくだけで、「また山中が来た」と睨まれるような状態。完成したばかりの12号館1階の広いガラス張り空間で、翼の主軸になるパイプを寝泊まりしながら作っていたこともあります

普通なら市販のカーボンパイプを使えばいいのですが、高価すぎて手が出ません。そこで布の状態のカーボンファイバーを型に巻いて樹脂で固め、自作しました。この作業には埃の入らない広い空間がどうしても必要でした。最初は屋外のテントでやっていたのですが、埃が入るし、冬は0度近く、寒くて樹脂が硬化せず申請しても絶対に許可は出ないので、無断で場所を使ってやっていました。最後のほうは、学生生活課の職員の方々も半ばあきらめて、見て見ぬふりをしてくれていた気がします

さらに、カーボンパイプを作る際、型には本来シリコンを使いますが、高価なのでアルミパイプで代用。巻いた後、水酸化ナトリウムの溶液でアルミを溶かして取り除きました。そのためのプールを作る必要があり、学内の人目につかない建物の裏に穴を掘り、ビニーシートを敷いてブクブクと溶かしていました。これも許可は絶対に下りないだろうと思い最初から無断でやっていました。今思えば、猫とか落ちなくて本当に良かったです。やっていることは滅茶苦茶でしたが、それでも、人は無理をしなければ何も成し得ないと信じ、迷いながらも突き進んでいました。


1992年8月、競争率約5倍の設計審査を通過し、完成した飛行機は、「鳥人間コンテスト」で飛ばし、テレビでも放映されました。機体は綺麗には完成しましたが、結果は散々で、記録は5.60メートルに終わりました。

1992年に出場した「鳥人間コンテスト」での飛行直前の様子。(画像提供:筆者)

不運にも無風状態での離陸や、他にもさまざまな原因はありましたが、2年かけて作ったものが一瞬でバラバラに壊れてしまう、その喪失感は大きなものでした。

壊れた機体は2トントラック2台で大学に持ち帰りましたが、そのまま処分するのも忍びなく、修復してもう一度きれいな形に戻し、芸術祭で展示することにしました。

展示場所として、講義室の中で最も大きい7号館の大教室を借りました。しかし斜めに入れても機体全体は収まらず、やむを得ず半分のみの展示としました。教室を暗くし、スポットライトでライトアップすることにしたのですが、教室を埋め尽くす、備え付けの椅子があるとどうしても見栄えが良くありません。そこで、椅子の取り外しについて学生生活課の瀬田さんに改めて許可を取りに行きましたが、やはり認めてもらえませんでした。だ、正直なところ最初から断られても実行するつもりではありました。

とはいえ、分厚く長い鉄板で横に連結された椅子は非常に重く、当時は今と違って複数のボルトでコンクリートの床にしっかり固定されていました。数も多く、部員全員で作業しても丸一日以上かかり、元に戻すのも一苦労でした。途中で何度もやめようと思いましたが、それでも椅子があると見え方がどうしても美しくならなかったのです

画像提供:武蔵野美術大学大学史史料室

お、復旧の際には古いボルトを新しいものに何も言わず交換しておきました。そこは自分の良いところです(笑)


その後、長い年月が経ち、卒業から20年ほどして、縁あってムサビに教員として戻ることになりました。着任して数日後、研究室のスタッフに電話があり、瀬田さんが「今度、工芸工業デザイン学科に入った先生は、あのときの山中か?」と聞いてきたそうです

すぐに会いに行くと、開口一番、「戻ってくるのが早すぎる。もっと活躍してから帰ってこい」と言われました。そこでこれまでの経歴を話し、なんとか納得してもらいました。日、電話を受けたスタッフに「よく一学生だった自分のことを覚えていましたね」と聞いたところ、「山中ほど問題を起こした学生は前にも後にもいない」と言っていたと教えられました。

教員になってからも、時間があると瀬田さんのところに顔を出し、いろいろな話をしていました。中でも印象に残っているのは、芸術祭で飛行後の機体を7号館に展示していたときのことです

瀬田さんは、「山中が椅子を勝手に外しているらしい」と聞いて講義室に駆けつけ、「怒鳴ってやろう」と思いながら鉄の扉を開けたそうです。ところが、薄暗い室内にライトアップされた巨大な機体が、強烈なパースで目に飛び込んできた瞬間、その迫力と美しさに思わず胸が熱くなり、涙がこぼれそうになった、と後から話してくれました。

私が「そのときに言ってくれていたら、もっと仲良くなれたのに」と言うと、「そんなこと言えるかよ」と笑って返されました。

教員になってからは、最初こそ「山中先生」と呼ばれていましたが10分も話せばすぐに「お前」に戻ります。そんな距離感も含めて、瀬田さんには今では深い愛着を感じています


瀬田さんは2017年に逝去され、既にこの世にはいませんが、私にとってかけがえのない存在であり、人力飛行機部の話をするうえで欠かせない人物です。そして忘れてはならないのは、飛行機づくりを共にした仲間のことです。今でも親友として付き合いが続き、苦楽をともにした特別な存在です

授業の中でもさまざまな衝撃的なエピソードはありますが、それはまた別の機会にお話しするとして、大学時代の課外活動は、私にとって心に深く刻まれたかけがえのない経験であり、特別な重みを持っています。課外活動は一人では決して成り立たず、そこで私が最も学んだのは、人と人とのつながりの尊さだったと感じています

山中一宏

やまなか・かずひろ

1971年生まれ。6才の頃より家具作りを始める。本学工芸工業デザイン学科インテリアデザインコース卒業後、英。1997年、英国王立芸術大学大学院(Royal College of Art)了。年、ロンドンにて、Kazuhiro Yamanaka Officeを設立。2004年、イタリア・ミラノサローネにて、ローネで最も優秀な新人に与えられる「デザインレポートアワード」最優秀賞を日本人として初めて受賞。世界の様々な企業と協業し、プロダクトを発表。作品の一部はニューヨーク近代美術館や上海現代美術館のパーマネントコレクションに選定。2023年iFデザインアワー(ドイツ)賞。2025年Dezeen Award(イギリス)最優秀賞受賞。2014年、本学工芸工業デザイン学科教授に着任。