新たなモザイク画の完成

駒込学園(東京都文京区)の地下1階にある食堂を通り抜け、​ガラス張りの両開きドアを開けて中庭に出ると、​正面に私たちHAL工房が今回作った大きなモザイク画《海へ》が見える。​中庭の真ん中に植えられている背の高い樹木(やまぼうし)がすっかり紅葉していて、​自分で言うのもなんだが、​モザイク画とマッチして趣のある風情を見せている。​

駒込学園の中庭・サンクンガーデン(画像提供:駒込学園)

中庭といっても地面も壁もコンクリートなので、​これまではこの木が唯一、​地下の食堂とつながるこの空間に季節の彩りを与えていたのだろう。​木に近い左の壁面には、​《海へ》の半分ほどの大きさである《月光》を設置することにした。​その隣には、​15年前に作った120号ほどの大きさのモザイク画《Spring Has Come》もある。​壁には、​作り付けのコンクリートベンチが2つあって、​それぞれにモザイク画を施している。​これらのベンチは、​私の原画を基に学園の高校生たちが協力してくれてできたものだ。​大理石のペルリーノを大量に使ったベンチなので、​乳白色のソファのような柔らかな質感にも感じられるのではないか。​以前放映していたリフォーム番組「大造!!劇的ビフォーアフター」などに出したい出来栄えである(笑)。​


モザイク画《食事の時間》を施したベンチ(画像提供:駒込学園)

食堂を出た右側は、​地上の正門方面に行くための広い階段であり、​そのため地上から一段低くなったこの空間は、​モザイク画に囲まれた食事もできる中庭であり、​広場でもあり、​モザイク画のあるベンチに座って、​それぞれの憩いの時間を過ごす彩り溢れるサンクンガーデンとなったのである。​



モザイク画が並ぶ生徒たちの憩いの場(画像提供:駒込学園)

2025年11月8日13時30分より、​設置した学校の関係各位、​PTAが集まり、​生徒たちが階段に数十人も並んで、​今回制作したモザイク画の落成式が行われた。​式の前には、​理事長先生や校長先生も同席して、​いつもの賄い飯では考えられない、​料亭で出るような昼食をHAL工房のみんなでご馳走になった。​落成式では、​数十年間卒業式などで渡したことはあっても、​もらったことはない賞状を恭しくいただいたり、​私を真ん中に理事長、​校長とともにテープカットを行ったりと、​実に華々しい式であった。​


落成式の様子2025年11月8日、​画像提供:駒込学園)

しかしながら、​私にしてみればつい数日前まで、​この落成式に向けて1週間以上もの間、​職人さんやこの学校の卒業生たちにも手伝ってもらって、​必死にモザイク画の取り付けと補修、​ベンチの制作をしていたので、​完成を喜ぶというよりは、​無事この日を迎えられたことに心から安堵したというのが正直な気持ちであった。​た、​この場にいて、​私たちを誉めてくれるはずの宮内淳吉先生の姿がなかったせいもあり、​その寂しさの方が先んじて、​手放しで喜べない気持ちがあったのである。​


《海へ》の取り付け、​補修作業風景(画像提供:駒込学園)

宮内淳吉先生のミサへ

は、​この落成式の1カ月ほど前、​前回も今回も、​駒込学園にあるモザイク画制作の監修をしていただいた宮内先生が亡くなられたのである。​落成式を無事に終えると、​今度は、​ネクタイの色を白からグレーに替えなければならなかった。​落成式の日の15時30分ら、​宮内先生の追悼ミサが行われるのである。​落成式に出席することは叶わなかったが、​それでも最後の最後まで我々を見守っていてくれたのか、​偶然この日に重なった先生のミサが、​感謝の気持ちを伝える場所としてありがたく思え、​やはり何か目に見えない縁のようなものがあるとしか思えない。​

さらに言えば、​宮内先生のミサは、​駒込学園の最寄り駅から電車で10分ほどしか離れていない、​四谷にある有名な聖イグナチオ教会で行われたのである。​聖イグナチオ教会マリア聖堂の正面の祭壇モザイク画を先生が制作した縁で、​この有名な教会でミサが行われることになったらしい。​その祭壇画は、​1辺が1センチ弱の大きさの真っ白な石だけで壁一面が規則正しく貼られており、​ところどころに金を貼ったガラスのピースが見え隠れしている。​それは離れて見ると、​一面が白い海、​乳の海かとも思える、​キリスト教徒である宮内先生の愛情表現溢れる、​質素で美しい、​人間の高い品を感じさせる作品である。​



聖イグナチオ教会マリア聖堂の祭壇モザイク画(撮影協力:カトリック麹町 聖イグナチオ教会)

私たちHAL工房の面々は、​キリスト教徒でもないし、​特に私は、​ミサというものに出席したのも、​過去に1回あるかないかくらいなので、​その場にいる皆で歌を歌ったり、​その度に立ったり座ったりするのが、​不謹慎かもしれないが、​なぜだか学校の授業を受けているようで楽しかった。​

そのミサの後には茶話会があり、​私たち夫婦とYさんは、​そこにも出席させていただいた。​会場に100人近くの方が集まっているのには驚いた。​多くの方たちが宮内先生について語りたかったのだろう。​先生の人徳というしかない。​中には、​私でも知っているモザイク画制作の大御所たちが何人か顔を揃えていらしたが、​皆さんがご高齢であったのは、​宮内先生が88歳だったことを思うと当たり前ではある。​大御所たちはさすがに付き合いが長く、​深い親交があったと見られ、​それぞれがそれぞれの宮内先生への想いをじっくりと語ったりして、​全体として心温まる、​とても和気藹々とした茶話会であった。​

しかしながら、​その場での私の挨拶はといえば。​今から思えば恥ずかしいのだが、​図々しくもモザイク画の新参者の身でありながら、​大御所たちを相手に格好をつけて、​モザイク画の落成式が今日あったことや、​宮内先生の弟子を自認していることなどを語ったりしたのである。​先生とのもっと良い思い出はたくさんあったし、​何より先生は弟子とか親方とかという言葉自体をあまり好まなかったように思うのだ。​もっと平等で率直な人間関係、​同じ仕事をする仲間としての緊張関係を大切にされていたように思うのである。​おそらくその人に対する姿勢は、​先生の師であった長谷川路可も同じだったのではないだろうか。​

《Spring Has Come》2010年制作時、​下のベンチにモザイク画《風》を施すためHAL工房のメンバーと共に石を貼る宮内先生(画面手前)

人から人へ、​何かが伝わる、​何かを伝える、​とはどういったことなのか。​私は20年以上も美術大学で絵を教える教員でありながら、​技術や方法であれば伝えることは可能なのかもしれないが、​もっと深いところでは、​伝わりようがないし、​伝えようもないのではないかと今でも思うことがしょっちゅうなのである。​最近の学生たちもわきまえているというか、​よそよそしいというか、​私と彼らの歳がずいぶん離れてしまったこともあって、​あまり相談にも来なくなった。​インターネットの活用やAIの登場などもあり、​今までのような人間関係はもう築けないのかもしれない。​自分自身がいよいよあと数年すれば大学を辞めるという段になって、​とんでもない世の中になるのではないかと不安で仕方がなくなるのである。​

《月光》2025年、​137✕116.5 cm、​駒込学園・サンクンガーデン(画像提供:駒込学園)

悼・中原俊三郎先生

て、​どうしよう。​こうとなれば、​私の大親友であった中原俊三郎先生(武蔵野美術大学工芸工業デザイン学科教授)のお別れの会の話もしたくなる。​は、​モザイク画を設置した学校の落成式では般若心境を唱え、​宮内先生の追悼ミサでは讃美歌を何曲も歌い、​次の日の中原さんのお別れの会では、​500人近くの参列者を前に、​あろうことか私ごときが同僚としての弔辞を読んだのである。​普段から私は、​自分がそれほど柔な人間とも思わないのであるが、​お別れの会の次の日から数日間、​熱が出て寝込んだことを思えば、​やはり私の中ではあまりにも濃い、​寝込んで体調を整えるしかない激動の週末だったのだろう。​

あらためて、​人間同士とは、​どう繋がって、​どう受け継がれていくものなのだろうか。​私の拙い中原さんへの弔辞を掲載してコラムの終わりとしたい。​賄い飯の話はできなかったが、​宮内先生は、​私の作るものをいつも「美い、​美味い」と言って、​残さず食べてくれた。​料亭の味には程遠いし、​中身も品数も情けないのであるが、​それらの賄い飯は、​人の顔を思い浮かべながらの料理なので、​ほんの少し、​気持ちという隠し味が入るのだろうと手前味噌なことを思っている。​


中原俊三郎先生へのお別れの言葉

(こんなに大勢の人たちが来てくれて、​嬉しいな、​中原さん)
ご紹介に預かりました武蔵野美術大学油絵学科の水上です。​僭越ながら中原先生、​私たちの間柄から中原さんと呼ばせていただきますが、​中原さんへのお別れの言葉を読ませていただきます。​

中原さんが旅立たれてからすでに半年近くが経ちました。​しかしながら僕には、​いまだにそれが信じられず、​まだ、​この辺りにいて、​あの屈託のない笑顔で「飲みに行こうよ」と誘ってくれるような気がします。​中原さん、​それにしても僕たちはずいぶん飲みましたね。​中原さんの病気が深刻な状態になる直前まで、​月に1回は2人で、​もしくは共通絵画の原一史さんを交えて3人で飲みに行ったりしました。​もうかれこれ20年以上もこの習慣を続けてきました。​

初めて一緒にお酒を飲んだのは、​いつだったか。​人気デザイナーだった中原さんと絵描きの僕とは接点があまりなくて、​同じ頃に大学に戻って、​年齢が近いことは知っていましたが、​よく思い出せません。​だ、​入ったばかりの頃は箱根の研修会があって、​それが終わった後、​中原さんに誘われて小田原の鰻屋に行った日のことはよく覚えています。​そこには、​共通絵画の甲田洋二先生や原さん、​工デの齋藤昭嘉先生や金工の小泉力雄先生などがいて、​11時頃から飲み食いを始めて、​3時頃まで飲んでいて、​やっと帰れると思ったら、​電車のロマンスカーの中でも宴会になって、​新宿に着いた頃、​僕はそこでフラフラになって帰りましたが、​中原さんたちはその後もまた居酒屋で終電近くまで飲んでいたと聞きました。​その健啖ぶり、​どれだけ飲むんだよと思う飲酒の量に驚きましたし、​共通絵画の先生や工デの先生たちは、​どこか大事なネジが1本外れているのではないかと思ったほどです(すみません)。​

それから僕たちは、​入試準備室でも甲田先生が学長の時の学長室でも一緒に働き、​同僚としても飲み友達としても濃厚に交わるようになりました。​入試準備室では、​6年も一緒に働きましたね。​準備室などは、​仕事が終わるのが夜の10時11時になることが当たり前なので、​一度そこに入ったら入試の2週間は缶詰め状態になり、​今はどうかわかりませんが、​当時は出たくても出られない蛸部屋のようなところでした。​

しかしながら、​僕たちが準備室にいた頃は、​僕たちのちょっと上の世代の先生、​原さんや映像の篠原規行さん、​基礎デの小林昭世さんもいて、​わずかな時間の隙間を見つけては飲みに行き、​ムサビの入試について心配し、​ムサビの将来を語り合い、​熱くなることもしばしばでしたが、​楽しい思い出の方がはるかに多かった気がします。​いつだったかは、​受験生が紙をとめるクリップを持ってこなければならないのに布団バサミを持ってきていて、​2人で一生懸命に笑いを堪えながら学内の画材屋までを案内したことなどもありました。​若かった僕たちは、​ここでムサビの良いところも悪いところも全部を学んだような気がするのです。​

東日本大震災が起きたのは、​僕たちが甲田学長の補佐をしている時でした。​は、​銀座で帰宅難民になったのですが、​家に向かって歩き出して夜の12時くらいに中野あたりまで辿り着いた頃、​中原さんが電話をくれましたね。​僕が銀座にいるのを知っていて、​三鷹の自分の家に泊まれと言ってくれました。​大渋滞の中、​車で迎えに来てくれ、​家に泊めてもらい、​温かい食事と飲み物を出していただき、​奥様にも大変お世話になりました。​そこで初めて震災の惨状を知り、​驚きと恐怖でよく眠れませんでしたが、​中原さんも同じだったのではないですか。​でも次の日の早朝、​一緒に大学に行きました。​中原さんは、​事務方トップの木村修三さんと2人で、​その場で臨時の対策本部を立ち上げ、​その後のさまざまな問題に誰よりも早く対応していました。​迅速な決断力と行動力、​責任感の強さと、​何より人に対する優しさ。​は、​あの時の中原さんほど人を立派だと思ったことがありません。​見事な危機管理能力で、​本気で尊敬し、​心から見習いたい人間だと思いました。​

日、​1人で飲みに行き、​中原さんを思い出しておりました。​デザイナーとしても数々の製品を世に送り出した中原さんですが、​僕の一番のお気に入りは、​やはり行きつけの飲み屋に常備されているウイスキーグラスなのです。​工デのガラス作家の大村俊二先生との共作であるそれは、​上から見ると飲み口の部分は丸いのですが、​台座の部分に行くほど楕円状になっています。​手を見ると、​親指と人差し指が作る空間の形状がちょうどその台座の形なのですが、​中原さんは手の形を見てイメージが湧いたのでしょうか。​バーの片隅で1人で飲んで、​あれこれ手の形を見ながら考えている姿を思うと、​またまた寂しく、​やり場のない気持ちになりました。​

持ちやすく、​飲みやすいように工夫されていて、​持ちあげると適度な重さがあり、​飲んでいると人間がワンランク高級になったような気持ちになります。​中原さんの傑作ですね。​初めて言いますが、​中原さんのいくつかの作品を思い浮かべてみると、​「生活に芸術を」というウィリアム・モリスの言葉が思い起こされます。​ライフスタイルとデザインの関係を追求した中原さんの仕事は、​さりげなく美しく、​機能的なものばかりですが、​どこかで良い意味での孤独な匂いがして、​最近の日本人が忘れてしまった品のようなものを感じるからです。​

今年になってからは、​治療に専念されていたのでしょう。​誘っても、​お会いできる機会がありませんでした。​5月頃だったか、​僕は寂しかったので作ったばかりのモザイク画の写真を中原さんの携帯に送りました。​するとすぐに返信をくれましたね。​ずいぶんと喜んで、​完成を見るのが楽しみだとメッセージをくれました。​中原さんは、​僕の個展には毎回足を運んでくれて、​どんな時も作品を誉めてくれました。​その反面、​僕はデザインの知識がまるでなく、​デザインの話をしたことがほとんどなかったように思います。​叶うなら中原さんともう一度会い、​ライフスタイルについてゆっくり語り合いたかった。​そうしたら中原さんは、​飲みながら僕にデザインの奥深さを教えてくれたかもしれない。​僕たちには、​まだまだ語り合う話題があったはずなのに、​携帯に「飲めるようになったら、​どこへでも、​どれだけでも一緒に飲みに行こうよ、​涙。​」と返ってきたのが最後のメッセージでした。​

中原さん、​本当に僕の飲み友達でいてくれてありがとう。​謝。​謝。​感謝です。​離れ離れになってしまいましたが、​もう少し僕の仕事を、​僕たちのことを天国から見守っていてください。​

中原さんのご冥福を心からお祈り申し上げます。​

中原先生デザインのウイスキーグラス
Cafe Barさんペンの輪(東京都福生市)にて

水上泰財

みずかみ・たいざい

1962年生まれ。​武蔵野美術大学大学院造形研究科油絵コース修了(修士)。​1997年4月、​本学に着任。​1988年からほぼ毎年個展を中心に作品を発表。​主に社会で起こる様々な事象から発想を得て、​同時代を生きる人々の姿を油彩で表した作品が多い。​1992年「日伯現代美術展」最優秀賞、​1995年「日本海美術展」賞、​同年「セントラル美術館油絵大賞展」佳作賞などを受賞。​著著に『ずっと人間描かれ』(武蔵野美術大学出版局、​2021年、​単著)、​『絵画組成 絵具が語りはじめるとき』(武蔵野美術大学出版局、​2019年、​共著)ど。​