「顕」ー聖地・金華山との対話
- 加藤
わたしは民俗学者ですので、一連のワークショップをある意味で観察者、記録者として見てきました。展示では各所に「樺山語録」というものを掲示しました。樺山先生が石巻の自然と向き合い、中高生やムサビの若者たちと対話していく時に、どのような言葉として表れるかを記述してきましたが、それを抜粋したものがその展示です。ふたつぐらいここでも紹介しましょう。
「果て」に行きたいと、いつも思っている。その先にはあの世があるから。 「果 て」にあるリアルというのは、あの世とこの世のバランスのなかにある。この世の世界と向こうの世界の、ボー ダーみたいなものを絵画にしなくてはならない。
- 樺山
石巻との関わりで、僕は「際」という言葉をとても大切にしていて、実際に作品の一つにも「際」というタイトルをつけている。この「際」という漢字の成り立ちは、生け贄の肉を捧げる祭壇とそれを捧げる手とハシゴでできているというんです。神と人とがともにある場の儀礼を指していて、
「際」とはその天と地、この世とあの世のボー ダーのことなんですよね。それがリアリティでもあると、僕は思う。僕らは肉体を持っていてそれは物質なんだけど、一方で肉体だけではなく、命はなんというか霊体で、肉体との合体なわけです。リアリティというのはどちらか一方ではないということで、この世というのはひとつの在り方だけど、常にこの世の向こう側にあの世が映されているわけで、わたしたちは肉体を持っているからそれが見えないわけだけれど、画家はそれをどうにかして見えるようにする人なのだろうなと思っているんです。というか、描く人自体が見たいということでもあるのでしょうが。でもそれがリアリティというものなんですよね。どちらか一方ではダメなんです。 絵もそうで、絵っていつも「生きもの」、言い換えれば「命」みたいなものになれば良いと思うんです。絵はモノなんだけど、
「生きもの」みたいになれば良い。 「生きもの」とはいま言ったように物質でもあり霊的な存在でもあるものだから、絵画がそうなれば良い。そういう意味で、絵というものはこの世とあの世の通路になるという、そういうイメージですね。
- 加藤
もうひとつ「樺山語録」から。
木は上に伸びようとする、そして根は下に降りようとする。そこにある「流れ」を考えなければならない。 「流 れ」は構造と違って、空間と存在をつなぐもの。構造はものだが「流 れ」は空間、力のリズムみたいなものなんだよね。それは重力のようなもので目には見えない。
- 樺山
木の地面から上はね、重力の言うことを聞かないわけ。太陽に向かって伸びようとするから重力から抗するように伸びようとする。しかし地面から下は重力の言うことを聞きます。下に落ちるという、だから下に伸びるんですね。植物って一番その形が表れているんです。人間もそうです。基本的には重力の言うことを聞かないわけね。だから自由に動こうとする。でもテレビとか椅子とかは、全部重力の言うことを聞いています。そうしないと倒れるからね。だから、生きているっていうのは重力に抗しながら、でも重力の言うことも聞きながら、この世に在るということなんだと思う。その形をどう掴むかということが重要で、それが形として一番よく顕わに出ているのが植物だし、それが「命」の形なんだと思うんですね。ですから、ひとつひとつの木を描くんだけど、ひとつひとつの木の本当の在りようを描きたいから描くんですね。
それで「構
造」というのは基本的にモノを支えるものと考えるんだけど、 「流 れ」は「空 間」と一緒に「存 在」を考える、 「空 間」と「存 在」をつなぐような考え方ですね。だから空間に偏在していて、充満しているひとつの気の流れみたいなものかもしれないし、風の流れみたいなものかもしれない。それは風景を見ていると、例えば1本の木を描く時にも、木を描くんだけど、でもその木を取り囲んでいる空間とかその木がある大地とか地面とか、そういうものと一緒に見てあげないと、その木の形がこうなっているよと掴めないんですね。全体をこう掴むというか、そういうことだと思うんです、「流 れ」を掴むというのはね。
- 加藤
そういう言葉を引き受けながら、中高生たちも普段はやらないチャレンジをし始めていった結果、この展示室に並んでいる作品のようになっていくわけです。
その年に先生自身が制作された「顕」について、ご自身で解説いただけないかと思います。

- 樺山
技法的なことも含めてみなさんにお伝えするとですね、僕はこんな明るい感じで描くことは普段ないんですね。
僕、海を描いたことがなくて、初めて海を描いたんです。金華山の部分は、実は黒の絵具はまったく使っていません。 赤・黄色・白の三原色を混ぜて黒をつくり出しています。反対に手前の木のところは、 ピーチブラックとかアイボリーブラックといったいろいろな黒色の絵具を使っています。 そうすると当然、奥の金華山のところの黒にはある弱さが出るんですね。黒って基本的にモノの色なんです。原油とか石炭とかが黒いように、生命の究極の色と、モノの色なんですね。ですから手前に黒を使って、奥には黒じゃない黒というかグレーを使っている。奥の金華山を顕微鏡で見れば、色の顔料しか見えないです。そうなると空間的、光として見える。そうすることで、手前のこの世の世界と、向こう側のあの世の世界を出すことができるかなという考え方をしました。
そして上には、赤を基本とした三原色で細いラインを描いています。空間には光が充満しているので、光を分解すると虹になるように、色を使うと光を感じることができるわけで、それを画面全体に描いています。そういうやり方をしていますね。
この画面は最初は当然真っ白なんですが、真っ白の上に真っ白でたくさん描いていきます。相当真っ白な時間が長いんです。だから基本、あまり明快に形がわからない状態が何日も何日も続くんです。それがどういう感覚かというと、白って光ですから、光でまず世界を描こうという意識です。まだ現れていない光の世界、そこに少しずつ色を置いていくと、それまで白で描いてきた形がだんだん見えてくるんです。つまりある意味で、何にもない世界から形を持った世界が現れてくる、それをどこまで現すかということでもあります。
この宇宙の始まりはビッグバンですが、そこで初めて現れた物質は光です。そういう意味ではみんな光に帰っていくんです。絵画って絵のなかにどうやって光を懐胎させるかなんですね。その懐胎のさせ方にはいろいろあります。色で、つまり明暗の関係で表す人もいれば、物質的な輝きで表す人もいれば、あるいは金のような素材を使って表す人もいる。でも、いずれも光をどう平面に懐胎させるかがとっても大事です。
僕は、真っ白な状態から真っ白の色を使って、真っ白というのは具体的にはチタニウムホワイトとシルバーホワイトを大体半々で合わせた絵具を使うんですけど、それで描いていくんです。でもその時が一番、楽しいかもしれない。はっきりしていないからね。でもだんだんこの世に近づいて形がはっきりしてくると、これでいいのか?とかそういうことを考え始めていくわけですよ。でもこの世を描くうえで一番大事なのは、さっき言ったけど、重力をどう感じさせるかだと思います。圧倒的にそれがリアリティだと思います。この世のリアリティね。でも重力って普段は感じられないですよね、あまりに当たり前すぎて。だから西洋絵画みたいに水平面をバッチリ出して、そこにものがあるよと描けばじゃあ重力は出るかというとそういうことでもない。普段僕らが感じている圧倒的な安心感というか、そういうものをどう絵のなかに作っていくかということが、この世を描くうえでは大事です。
とは言っても、重力を描いただけではダメで、重力から抗するように、あるいは光のように空間に偏在して動き回るような自由さ、あるいは肉体とともに霊体というものがあるとすれば、空間を動き回れるような霊的な自由さというか、そういうものが1枚の絵の中で一緒にならないかなぁと思っているんですね。それを一番体現しているのが、樹木なんですね。
- 加藤
これは金華山だけど、もはや金華山ではないというようなこともおっしゃっておられましたが。
- 樺山
だけど、金華山なんですよ。あのね、金華山を描こうとしないとダメなの。金華山じゃなくするのはあまりにも身勝手すぎるんだよ。自分勝手すぎる、金華山じゃなくするのは。徹底的に金華山にしようと思えば、金華山じゃなくなる、ような気がする。でもそれはね、写真的なリアリティを追求することじゃないんですよ。金華山に近づくというのはね。
- 加藤
より動いているわけですか? 先生の中では金華山は。
- 樺山
この時は動いているというよりは、海と空を同じものとして扱ったね。金華山が海の中にあるというよりは、空間の中に浮いているような、だんだんそういう感覚になっていったということかな。それは一番最初に見た金華山の印象だったかもしれない。空と海は本当はパキッと2つに分かれるじゃないですか。基本的には。でもそれが分かれないで同じものとして見えてたのかな。だから、非常にあの世的だったというか、天と地が一緒になっていたんだね。そんな気持ちだったんじゃないかな。
それと、(画面全体に淡い曲線を)ウネウネ、ウネウネ描くというのはですね、これは個人的にそういうものを見た経験というかですね、これはあまり言うとアレなんだけど。
- 加藤
現場でですか?
- 樺山
違う。もっと幼いときに。自分の中の記憶から、
「世界ってこうだなぁ」というね。
- 加藤
それは一貫しているものですか?
- 樺山
一貫しています。この展示室の全部の絵に、これがあります。見えづらいのもあるけど、全部こうやって描きますね。
- 加藤
今回、こうやって樺山作品をたくさん展示するにあたって、一番苦労したのが照明だったんですね。何が苦労したかというと、最初にこの「顕」を見たのは国立新美術館だったんですが、それは割と均質な明かりでかなり照度を高く見せている空間だったんですが、下地の白が前に出過ぎてしまって、手前の本来動いているものが後退してしまっているような、絵そのものが多分そういう構造になっているんですけども、特にこのユラユラしているものがほとんど見えてこなかったんですね。でも実際の絵を見てみるとそれが動いている。それで、この展示室へ持ってきて壁に掛けたあと、強い光を当ててみるとそのゆらめきがスッと消えるんですね。
で、ある照度のバランスのところで、フワッと出てくるんです。ですから、もう絵にどうすればいいか聞きながら照明するような気持ちでやらないと、姿が現れないような、そんな揺らぎを感じましたね。
- 樺山
たぶん、僕らって世界を見ている時って表層的なもの、意味のあるもの、名付けられたものと同時に、名付けられないものを見ているはずなんですね。意識化されない、あるいは言語化されないだけで、見ているはずだろうと思います。それを同時に見えるようにしたいんですね。モノとして存在としての在りようも見える、つまり木だよねっていう。同時に、そうじゃない、言葉にならない、
「命」と言っても良いもの、「命」ってモノがあるわけじゃないよね。それはなんなのかわからないけど、それを見たい、感じたいから描いているんですけどね。
- 加藤
そういうわけで、この展示室は展覧会としてはかなり暗めになりました。なので、フィールドワークで体験した昼間の森を歩いているような感じで木漏れ日のように床に照明を落としたりすることで、観覧者自身が意味のある木に出会っていくような、そんな方向性でこの展示空間を作り込みました。
- 樺山
この展覧会をやるときに僕がイメージしたのは、こういう展覧会は東京でもやったことがあるんですけど、その時も展覧会場を作るというよりも、御堂みたいな、そういう世界をつくりたいということがありましたね。絵を楽しむというよりは、いわば瞑想できるような。そういう空間になれば良いなと思っていますね。
2025年度の活動を振り返って
- 加藤
20
25年、引き続き石巻に通われるわけですが、今年度は新たな中高生のメンバーも加わり、また2年連続参加の生徒もいて、みんなでまず訪ねたのが牡鹿半島の北側に位置する離島の 出島 でした。ここにいわゆる縄文のストーンサークルと呼ばれる巨石が並んでいる出島配石遺構群という遺跡でした。近くには貝塚跡もあり、何かの儀礼を行なった場所と言われています。東北地方各地には縄文のストーンサークルといわれるものがあり、研究成果においては実際にそこに死者が埋葬され、またそこで儀礼が行われ、あるいは慰霊が行われるような、そんな痕跡も見られるということです。ただ、まだ謎に包まれていて、太陽の沈む方向との関係など様々な考察があるものです。

- 樺山
ストーンサークルは、
前々から興味がありました。北海道のストーンサークルを見た経験もあるし、今回の出島のものも形は崩れていたけれど、想像すればここにストーンサークルがあったのだなと感じさせられるようなものでしたね。
- 加藤
ストーンサークルはどういうものかという先生自身の言葉も「樺山語録」にはあります。
ストーンサークルってどういうイメージかというと盆踊りなんだよね。盆踊りって、失われた人たちと一緒に踊ることじゃない? ストーンサークルって呪術的なもので、失われた霊的なものと今いる人たちが接続する場なんじゃないかって思う。そう考えていくと、ストーンサークルの周りの木々が踊っているようにも見えた。
- 樺山
まさに盆踊りって、失われた人々と今いる人々が、夏の夜に出会って一緒に踊る場ですね。そういう意味では、別の世界とこの現実世界とが接続された場所っていうかね、さっきから絵画ってこういうものだよねということとも符合するし、まさにこのストーンサークルはそういう場所なんだなと、ずっと思っていました。
僕はこの石巻とムサビとの活動を通じて、いろんなことを考えました。やっぱりこう、被災地というなかなか自身でも言葉にすることができないなと思っているんだけど、被災地であるということはずっと心に留めていましたし、もうすぐ
15年の節目が来ますけれども… …。やっぱり、ストーンサークルで描き始めた、この「際」という作品を描いていくなかで、被災して亡くなられた方々も一緒に踊れればいいな、とね。 こんなふうに話すのは初めてなのだけれど、3.11には
15年の間にいろいろな芸術家たちが関わってきましたが、自分が絵描きとしてどう関われるかということも考えてきました。なかなか関われないし、関わっちゃいけないような気もしていたんですね。ですけど今回、石巻との縁でこの地に足を運んで、この絵に関してはある種のレクイエムというか、はっきりそうだとは言えないけれど、そういう気持ちは心の底辺で動いていたなと思います。こういう話を今日みなさんにするかどうかは、ずっと考えてきたんだけれど、そういう思いがあったということはお伝えしたいと思ってお話ししました。 この手前にある岩がストーンサークルで、奥の木々が踊っているという絵なんです。実際現地でもね、
木々の向こうに海が見えてね、その向こうに半島も見えてね、そういうところでみんなが踊っているという、なんかそういう作品にしようとしたわけではないんだけど、心の中では常にそういうものが動いていたなという感じがしています。
- 加藤
この時のフィールドワークでは、そのあと波板海岸(石巻市雄勝地区)、夏の海水浴場として親しまれている場所ですが、この雄勝という場所はとにかく石がですね、大地のうねりというか、褶曲と呼んだりしますが、あの硬い石がグニャグニャ曲がっているというか、「硬
さ」と「柔らかさ」みたいな話も現地でされていたと思いますが。

- 樺山
うん、なんていうか、たぶん柔らかいんだと思うんだよね、地球もね。ただ時間的にすごく長い時間をかけて曲がるから、人間には硬く感じるのだと思うけど、それが宇宙的な時間からしたら、これが曲がった時間なんて取るに足らない時間かもしれないですよね。そういうことからすると、ある種の柔らかさを持っている。単純に褶曲の形を見ても、岩石というよりかはやっぱりちょっと生きているというか、「生きもの」を感じる形といいますかね。そういうことを思いましたね。
- 加藤
それ自体がプレートが沈み込むこの土地の、均せば70、
80年に一度ぐらい大津波を引き起こす大地震が発生する土地の営みと結びついているわけですね。 もうひとつ「樺山語録」から。
自然の中でぼくたちは、目の前の空を見ていても、同時に頭上の空も感じている。良い絵は、自然を見ている時と同じような視線の動きをさせる。人間の眼は、世界の仕組みをとらえることができる。絵は、平面の中に3次元の空間を再構築するのではなく、2次元の持つ平面性の強さの中に、世界を落とし込んでいく作業である。
改めて、この「世界の仕組み」ってどういうことですか?
- 樺山
自然を見ている時って、常に目を動かすじゃないですか。じゃあ、その風景を写真に撮って見せたら、そんなふうに目が動くかというと、動かないですよね。ですから本当にその場に立った時の目の動かし方を、どんなふうに絵に仕組むかということなんですよ。それはとても難しい。単純に形だけ仕組めば良いわけではないし、色もそうだし、マチエールもそうだし、線の強弱にしてもそうだし。それは、その時に見た感覚の自然さみたいなものではないかなと、思っているわけです。
ですから、やっぱり視線をどんなふうに動かしていくかということに関して徹底的に考えていかなければならないし、絵画は平面としてストンとそこに在るけれど、実際に僕らが自然を見ている時は空だって広がっているし、その感覚をどんなふうに作ればいいのかということなんですね。それをやったのは西洋ではなくて、東洋画の世界なのではないかと思うんです。西洋の絵画は基本的に非常に実証的にリアルな世界をとらえるけれども、そういうリアルじゃなくて。西洋の特にルネサンス以降は、そこにモノが在るということを言い続けてきたわけです。見えるよね、だから物をバッチリ描いて、影をバッチリ描いたんですね。
ところが日本の場合は、絵画というのは明治期以前は影を描くことをほとんどしてこなかった。実際には影はあったけれどもそれを一切描いてこなかったわけです。だから在るということよりも失われるということの方に価値があったと思うし、その方がリアルだったというふうに思います。僕が言っているのはそういうリアル。モノがあるよねというリアルではなくて、無くなるよねというリアル。それをどう描くのか。その感覚をどう描くのか。木はあるけど、いつかその姿は無くなるよねというリアル。それではそういう感覚はどういうふうにしたら絵に出るのだろうか。というふうに考えるんですね。
「際」ー森を描き、死者を想う
- 加藤
そうして完成した「際」という作品について、解説いただけますか?

- 樺山
今回加藤先生と展示をしてすごく思ったのは、ライティングによって見えてくるものと見えてこなかったモノがすごくあるなということで、今この展示のライティングが成功しているのかは今でもよくわからないんですね。実際、ポスターとして刷り上がったものを見ると割と均質に黒い絵として見えるんだけど、照明を当てることで下の白が見えてきます。ではそれをどこまで見せるのかというのは結構大事なことだということを、今回の展示ですごく思いました。本当に下にある形がどれだけ見えることが重要なのか。あるいは見えないことの方が重要なのかということを、加藤先生と展示をしながら考えさせられました。
当初は、実際にストーンサークルが立っていた当時を想定して描き始めました。しかしそれはあまりにも今の形ではないなと思い、それはストーンサークルを想像して作るような感じになるから、そうじゃないんじゃないかという思いで、そう見えないようにしていった。そして石の部分と森の部分を別のものとして描くのではなくて、続いているものとして描くようにしていきました。
そしてストーンサークルの岩の部分が、金華山の形にもすごく似ているなと途中からすごく思い始めました。そしてこれに金華山との共通性みたいなものも感じて、すごく面白いと思いましたね。そしてこの下には、相当に絵の具の白の層が重なっています。ですからその白をどれぐらい見せるのかは難しいことだなと思っています。
- 加藤
この展覧会は、作品の説明を極端に削ぎ落として、最終的にはキャプションもつけずに完成させて、学芸員の皆さんからも、そして来場者の皆さんからも「もうちょっと説明してよ」という要望をいただいているんですが。今日こうして、ご自身で絵の成り立ちを解体して説明いただいてですね、そこにあるものを理解していくという機会としたわけですが、実は美術館では鑑賞者の鑑賞を妨げかねないために、普通そうしたことは行わないわけです。
でも、わたしは「博物館で行う美術展」のひとつの可能性として、理解しながらわかっていく喜びとか、そのうえで見る人それぞれが関心を広げていく楽しみを提供することができるのではないかと思っているんです。
- 樺山
いや、ほんと「博物館でやる美術展」という可能性にはね、共感しました。
- 加藤
そして、石巻をテーマに制作した作品と組み合わせた木々の作品群は、埼玉県のご自宅の近くの山などで描かれたものですね。
- 樺山
JR八高線の金子駅というところがあるのですが、こちら側(以下の写真参照)の木々
は、金子駅前の桜を描きました。もう切られて無くなっちゃったんですけどね。結構街中なんですけど、なんか描こうと思ったんですね。描き始めると何回も描きますから、だんだんいろんなことが見えてきて、いろんな関係性も見えてきたんですね。

- 加藤
それも生徒におっしゃってましたね。セザンヌがサント=ヴィクトワール山を繰り返し描いたように、ある場所がその人にとって特別な場所となっていくと。
- 樺山
うん、それと一緒。おんなじ場所を何回も描きますね。そうすると前に描いたものといま描いているものの違いがわかるし、違う場所を書くとなかなかそれがわからないんですけれど。一番奥にある木は、僕のアトリエから見える木なんですけど、去年東京で個展をやった時には、あのモチーフだけの展覧会でした。でもそうすることによって、一つのモチーフなんだけど、その時考えていたことの違いなんかもわかって、非常に勉強になるんです。
- 加藤
さて、2年間の中高生との制作を振り返ってどうですか。
- 樺山
面白かったですよ。そして今回、中高生と一緒に展示をやったのが、なんかいい感じ。みんな面白かった。いつもは美大で教えてるでしょ。相手はまぁ、絵のことをそこそこみんなわかってきている、基礎的な勉強もしてきている人たち。でも中高生はそうでないでしょ。ものすごい、なんていうか、できたてホヤホヤ、感覚がね。すごいピュアなんですね。もちろん技術的に、技巧的に深いとか、そういうものはないというか、それはありえないんだけど、感覚的なピュアさに触れていると、そういうものこそ失ってはいけないのだなと改めて教えられるところがありました。こういう機会でもない限り、中高生と一緒にやることなんてないからね、壁面共有できたってことは僕にとっても良かったなと思いますね。

それと、美術大学で教えていると、作っている作品と言葉が乖離していることってよくあるんですね。考えすぎてしまって。ただ中高生はあんまりそれがないですね。言葉がストレートに作品に直結しているよね。
- 加藤
これに参加した中高生に、これからも大切にしてほしいものってどんなことですか?
- 樺山
石巻やその周辺の中高生たちですから、改めて自分たちの土地を見たってことが大切ですね。住んでいるわけですからなんでも普通ですよ。でもその中に何か自分の感覚や、考え方を新鮮にすることによって、世界は新しく見えてくるよねということに気付いてくれたように思います。作品を見ているとね。そういうことを大事にしてほしいなと思います。大事なものは足元にある。そういうところからしかリアルなまなざしは持てないなと思います。同時に遠くにも足を運んでほしいなと思いますから、その両方ですね。
- 加藤
博物館の常設展では、石巻の歴史や文化について触れられますが、研究によって明らかになったことをわかる楽しみがあります。同時に美術に代表される、自分自身で感じて何かがわかる悦びがあります。絵を描かない一般の方々が、この土地を見つめ直すために、何かヒントはいただけますか?
- 樺山
表現っていろいろあるじゃないですか。言葉もあるし、映像もあるし、でも一番大事なのは、今回僕が改めて思ったのは、教育ってあれこれ四の五の教えることだけじゃないなと思いました。現場に放り込んでやるだけでいいんですね。そうしたら動くからねみんな、反応していくから。
大事なのは、このネットの世界で情報を得ようと思ったら多くの情報を得ることができる中で、自分の身体をそこに放り込むこと、単純にそこへ行くということなんだよね。できればそこで、やっぱり何か描くべきだと思うんです。造形表現において描くということはベースのベースなので。現場に足を運んで、人でもいいしモノでもいいし、やっぱり対話してみる。それは絵を描く人であろうが、描かない人であろうが。
- 加藤
身近なところへも、遠いところへも、
「旅」をするという。
- 樺山
好奇心というか、新しいものを見てみたいという意欲はとても大事だと思います。僕は街を訪ねるというよりも移動することの方が楽しかったりしました。遠いというだけで、身体で感じることでわかることがあるね。前に座ってくれている今回参加した生徒たち、みんないつも小さいスケッチブックと鉛筆を持ってる? ……って僕もね、恩師の先生に言われたんだよ、
「いつも持っていなくちゃダメだよ」ってね。
- 加藤
この展覧会、こうしてお話を聞いてからもう一周してみると、また新たな発見もあると思います。そして身近な風景を、別の眼差しで、特に画家の目を借りて見てみると、自分自身でもそう見えてくるような気持ちがするものです。
このワークショップ「森と海の美術展」
は、来年度以降も新たなプログラムで続いていきますので、ぜひまた展示を楽しみにしていてください。それでは今日は樺山先生、貴重なお話をいただきまして、ありがとうございました。
- 樺山
みなさん、この後も質問などありましたら声をかけてください。では改めて展覧会を楽しんでいただければと思います。
















