まずは10年続ける。時間をかけることで生まれる価値
齋藤先生は、視デの研究室の助手を退任した19
85年から、世田谷区の非常勤職員としてまちづくりに携わることになります。先生のほうからアプローチされたのですか?
いえ、世田谷区に “スカウト” された形なんです。
前述の和光幼稚園、桜丘冒険遊び場、雑居まつりと、学生時代から世田谷区とはさまざまなつながりがありました。ほかにも、在学中にアルバイトをしていた計画技術研究所が世田谷区の基本構想に携わっていたり、助手時代から参画した演劇ワークショップ「太陽の市場」註1のフィールドが世田谷区の羽根木公園だったり。
当時、東京都の区長公選制復活によって、世田谷区長が選挙で選ばれるという大きな変化があり、「世田谷区の基本構想は、住民参加でやりましょう」と位置づけて、それを展開しようとしていたタイミングでした。それで、区の企画部都市デザイン室の方たちが「これからまちづくりをやっていくには、齋藤さんみたいに市民と一緒にデザインできる人が必要だよね」
その後、視デの非常勤講師にも着任されるんですよね?
はい、翌年の19

世田谷区と視デのお仕事は、先生にとっては同一のフィールドという感覚だったのでしょうか? あるいは少し異なっていたのでしょうか。
伝えたいことや、新しく起こしたいコンテンツがあって、それを実現するプロセスをつくるという点ではどちらも共通しているので、矛盾は感じませんでした。大学と区役所の文化の違いはありましたが、幸運なことに、私が配属された都市デザイン室はけっこう自由で。都市デザイン室の仕事は新しいテーマばかりで、事務的なノルマがあるようなものではなかったので、自分の頑張りしだいで調査や研究も含めて大学で勉強してきたすべてのことが実現できるような環境でした。そこでの経験は、すごく大きな財産になっています。
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04年に視デの専任教員になられたとき、 「なにかプロジェクトを始めるときは、 10年続くものにしよう」とおっしゃっていました。そのことについてもお聞かせいただけますか?
区役所の仕事をして “耕して、種をまいて、それが形になる” までにはすごく時間がかかることを知りました。行政の仕事は、途中で「儲からないからやめます」みたいなものではなく、時間をかけることで実現できるもの。そこが面白いなと思いましたね。
たとえば「せたがや百景」という企画では、世田谷の “いい風景” を公募し100箇所を選出。現地に足を運び、100景を紹介する雑誌を編集しました。それらをめぐる散歩ルートを考えたところ、

時間をかけないとできないけれど、かけるほどに実現可能になっていく。たとえば道路をつくることも、その代表的な事業です。私の携わった事業では、まず、話し合いの場を計画するために職員の人たちのネットワークをつくって、職員の人たちでワークショップをやって、それから住民の人たちともワークショップをやり、なんとなく基本構想的なものができて。
大学も、それとちょっと似ていると思います。学生の多くは4年間しか大学にいませんが、先生の視点からすると、自分自身の研究や授業の成果が蓄積し、さらに卒業生たちが年輪のように歴史を積み上げていくさまは、共通するところがあります。
10年というスパンは非常に長く感じますが、世田谷区の仕事の時間のかけ方が染みついていたのでしょうか。
そうかもしれないですね。だからこそ、専任教員に着任したとき、大学の周辺のフィールドで継続的に取り組めるようなことをしたいなと、考えたんです。
3領域が一体化したカリキュラム
視デの学生はほかの学科と比べても、
「参加するデザイン」ということを意識していると思います。それはカリキュラムによるところも大きいと思いますが、3年次からの「ライティングスペースデザイン」 「情報デザイン」 「環境デザイン」が一体化したカリキュラムというのは、 19 93年に勝井三雄先生が主任教授になってから生まれたのでしょうか。
そうですね、勝井先生はそれまで視デがやっていたことを大きく見直して、教育コンセプトを構造的に変えたと思います。ただ、ご本人もおっしゃっていたのですが、それまでの視デを否定したわけではなく、及部先生たちがやっていたことは継承されるべきことだと。そのうえで、3つの柱の考え方が整理されました。しかも「ライティングスペースデザイン」
視デの卒業制作を見ていると、3領域が組み合わさってつくられていることをすごく感じます。
コース制ではないこと以外に、授業をまたいだ成果の発表と展示があることも大きいかもしれません。自分がその授業を受講していなくても、そこでどんなことが行われていて、なにが生まれたのかを知ることができるので、学生同士が影響し合うことにつながっていると思います。

場所や名前や手法を変えて続けてきた「小さな夏休み」
長らく続いている視デの名物授業、
「小さな夏休み」についてもお話を伺いたいです。
背景としては、まず幼稚園や養護学校などでの子どもを対象にした段ボール遊具づくりと並行して行っていた、東京都美術館での「平面造形講座」
教育普及活動とは、お手本と同じ作品をつくるレッスンのようなものを、主体的に創作活動をしていくようなものへと、参加者自身を変えていく活動です。新しくできてきた美術館でムサビ出身の学芸員が教育普及の担当として活躍し始めるという時期が重なり、子どもを対象にして大学と一緒にやりたいと声をかけてもらう機会が増えました。そういうニーズに対して、私たちがやってきた子どもを対象にした段ボール遊具をつくるプロジェクトは、まさにぴったりだったんですね。宮城県美術館や板橋区立美術館、目黒区美術館などで、子どもと一緒に段ボールなどを使って造形活動をするワークショップを実施しました。
それらはたぶん、美術大学としてごく当たり前の取り組みだったと思います。でも、たとえば造形プログラムが社会に対してどんな役割を持つのかというのは、美術大学の従来の考え方の枠をまだ出ていませんでした。
そんな流れを経た19
保坂さんは新聞で及部先生が関わっていたプロジェクトの紹介記事を読み、アプローチしてきてくださいました。公民館からの問い合わせということで、及部先生は一緒にできるかどうか慎重に考えていましたが、私は世田谷区の仕事の経験から、ぜひ公民館とやるべきだと思いました。最後は子どもを対象にするという点が決め手になりましたね。そうして、並木公民館主催の造形ワークショップが実現。
「大きな夏休み」では、演劇的な要素を取り入れたことが特徴的でした。初年度に実施した「不思議百億共和国」の発表会で、子どもたちは役者のように国王や怪獣といったキャラクターになりきっていて。当初、私たちは演劇的な要素はそんなに意識していなかったのですが、子どもたち自らがそういう発表をしてきたことで、プログラムのなかに演劇的な要素をもっとちゃんと組み込むことができると気づいたんです。
5年目の大きな夏休みで行った「タンチャメーを救え! ラブラブ大作戦」

大きな夏休みが「小さな夏休み」に変わったのは、大きな夏休みのスタートから5年が経ったことがきっかけでした。行政の事業って、数年でプログラムをつくり直すんですね。なので、公民館の事業としてはおしまいですということだったんです。
だけど、それまで子どもを参加させてくださっていたお母さんたちが、「終わりにしたくない」
そうして19
そのスタイルでの小さな夏休みは、その後20
そのことは学生たちにとってもいい機会になったと思います。なぜかというと、並木公民館での環境があまりにも恵まれていたからです。かつてのように学生自らが街の施設や地域に交渉する機会は少なくなっていましたし、社会教育団体が運営していたときは、国分寺市報で参加者を募集してくださっていたんですよ。だから、ムサビの力だけでやるというのは冒険でした。
最初の年は、やはり参加者を集めることが大変でした。チラシをつくって近隣の小学校に配布させてもらったり、つながりのある子ども関係の団体に呼びかけたりしましたが、全然集まらなくて2次募集をしました。ただ、そのときのワークショップ「音の森」はとてもいいプログラムでした。参加者に事前配布する案内状に音が鳴る「音の実」を入れ、当日はそれを鳴らしながら、同じ音の子を見つけてグループをつくってもらうというもの。案内状の完成がギリギリになってしまって、たしか開催前日に学生たちが自転車で参加者の家をまわり、直接ポストに入れました。


そういうピンチもたくさんありましたが、みんなが参加者をしっかり意識し、必死になって取り組んだからこそ、いいプログラムになったのだと思います。「小さな夏休み」は20


大学の周辺地域との連携で生まれた変化
専任教員になった20
04年以降は、大学周辺地域とのつながりを深めてきたかと思います。20 11年からは、8年間にわたって小平第十二小学校(以下「十二小」)との連携授業を行いました。
十二小はムサビのすぐ裏にあるのですが、そのことを知っている人はほとんどいないんです。一方で十二小から見ると、12号館が丸見えで、すごく存在感がある。十二小の子どもたちにとっては、ムサビはごく日常的な存在なんです。
図工の連携授業を始めた当時は、大学周辺の区画整理事業が実施され、数年後に新しく大きな道路がつくられるという状況でした。その影響で十二小の校庭にあるシンボルツリーの大ケヤキが伐採されることが決まっていたので、失われる大ケヤキを題材とした工作や、まちの未来を創造する造形などを題材にすることにしました。
区画が整理されると、新しい家がたくさん建ちます。十二小の子どもたちにとっては、風景がガラリと変わるだけでなく、転校生も入ってきたりして、環境がまったく変わることを意味するんです。そういうことを前提に、図工担当の先生と話し合い、授業の内容を考えていきました。
授業が始まって4年目には大ケヤキが伐採され、7年目の20

この連携授業を通して、学校や地域の環境が変わるという転機を、十二小の子どもたちとムサビの学生が同じように体験したんですよね。地域とつながり、時間を共にすることで、自分の暮らす街や環境への愛着についてあらためて考える機会になったと思います。
一方では、小平市で開催されている障害者アートの展覧会「異才たちのアート展」註2に協力。それをきっかけに、さまざまな公共施設からもプロジェクトや共同研究のお話をいただくようになりました。これまで続けてきた活動がネットワークを広げて、だんだんとムサビが地域の美術大学として認知されてきたところだと感じています。行政を含め、いろいろな方が、人と人とをつなぐコミュニケーションにはデザインと造形の力が必要だと思ってくださったことに、期待と責任を感じていますね。地域と大学の変化はいまも続いています。

















