かつて芸術祭は、学生が作品を展示し、教員がそれを評価するという教育課程の一環にあった。これに対して作品の自由展示を求めた学生の希求が、やがて学園紛争という大きなうねりへと転じてゆく。
宮本常一はそれをどのように受け止め、学生たちにその思いを発信したのか。加藤幸治(教養文化・学芸員課程教授)が当時の資料をもとに、いま、その思いを読み解く。
1969、1970年の芸術祭中止
武蔵野美術大学の大学紛争は、1969年の中央教育審議会の答申に基づく「大学運営に関する臨時措置法」立法化反対の全学ストライキ可決(学生大会)によって重大局面を迎えていた。1969年と翌1970年には芸術祭が中止され、それは武蔵野美術大学における大学紛争の象徴的な出来事として沿革に刻まれている。
芸術祭中止はその2年前の1967年から火種がくすぶっていた。当時の芸術祭は、大学創立記念日の10月30日にあわせた「大学創立記念祭」として行われ、展示作品は課題として採点の対象となっていた。カリキュラムに位置付けられている芸術祭に対して、学生たちは、より自由な制作による自由な展示の場を求め、大学の間で激しい議論を投げかけた。その結果、1967年の芸術祭では一部に自由展示の余地が認められたが、全体としては作品を採点対象とする従来の芸術祭の位置付けに変更はなかった。
翌年、1968年の芸術祭を目前に控えた10月18日、芸術祭運営委員会(教員側)と芸術祭実行委員会(学生側)の間で会議が持たれた。当然、教員側は芸術祭に関する活動の単位化の継続を主張し、学生側は学生自治による自由な制作と展示による自治を求め、議論は平行線をたどった。結果として学生側はバリケードを構築し、10月21日までストライキが敢行された。大学側は、「学生の自治・文化活動に対する評価・保証と、学生の熱意を吸収する機関の設置とを通告」(註1)することによって、ストライキは解除され、その年の芸術祭は開催された。
その後、大学紛争はさらにエスカレートしていき、1969年のキャンパスのロックアウトと芸術祭中止に至り、1970年は芸術祭中止のみならず、卒業制作展と卒業式も行われなかった。1971年は学生自治会による一部ボイコットがあったものの芸術祭は開催され、全国的な大学紛争の沈静化とともに徐々に終息に向かっていった。
1968年ストライキと宮本常一
学生と教員の間では、カリキュラムへの批判や、大学運営への学生参加、そして芸術祭の自主管理などが争点となっていたが、前述のように1968年10月18日、芸術祭についての教員―学生間の会議が行われた。激しい論争からその後のストライキにいたる過程について、民俗学の教員であった宮本常一(在職1965-77、名誉教授)が芸術祭開催後に寄稿した「思うこと」という短い文章が学園ニュース『武蔵野美術』(1968年11月6日)に掲載された。

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宮本常一はここで教員という立場を一旦横において、学生たちと教員の情熱とエネルギーを評価し、学生と教員による「共同体」の構築について述べている。1961年に鷹の台校(現 鷹の台キャンパス)が開設され、翌1962年に武蔵野美術大学として出発して6年が経過した当時、個別の学科や工房への帰属意識から、「美術大学」としてのアクティブな「共同体」の萌芽が見られ、大学当局との対立によってその輪郭が明確になったというのである。
21日午後の話しあいのとき、学生諸君の間には武蔵野美術大学という共同体を意識したつよい連帯感が見られた。私はそれをすばらしいものと思った。油絵の、彫刻の、グラフィックデザインの、インダストリアルデザインの、建築の学生としての自覚のほかに、一人一人が美大の学生であるとの意識をつよく持ってきた。いわゆる無関心派などと言われるものは少数に過ぎない事実を知って、この中から何かが生まれてくるだろうということが予測せられたのである。
(宮本常一「思うこと」 学園ニュース『武蔵野美術』 1968年11月6日、2頁)
一方で、宮本常一は大学に通うことのできない多くの若者たちと対比しながら、大学生の特権意識の無自覚についても言及している。大学当局の権力を批判していた当時の学生たちからは反発を招いたに違いないが、そこには庶民生活と民衆の生き方、社会の底辺の「声」を持たない人々に目を向け続けてきた、醒めたまなざしを見てとることができるのではなかろうか。
さらに宮本常一は、教員も学生も含めた大学そのものが、特権意識から抜け出した先に、「民衆社会のレベルにまで押し出してみることはできないものだろうか」と述べている。
その大学および大学生活は次第に特権階級としての地位をくずしつつも、なお一方ではそれを守ろうとしているが、その内包する矛盾のために過去および現在の状況の維持は困難になって来つつある。そして今日、大学本来の使命感というものは非常に希薄になりつつある。むしろ大学を民衆社会のレベルにまで押し出してみることはできないものだろうかと思うことがある。
(宮本常一「思うこと」 学園ニュース『武蔵野美術』 1968年11月6日、1頁)
わかりにくい表現であるが、戦後、民衆の誰もがみずからの意見を表明し、政治批判を行うことができる時代になり、社会システムに異議申し立てをすることができるのが一部の知識人の特権ではもはやなくなった時代において、学術研究や大学そのものをもっと社会の中に「押し出してみる」ことが、歩む道だと示唆していると思われる。大学が、社会の主流に人材を送り出す機関になってしまっていると本文の冒頭で述べているが、その不満は宮本常一が晩年に至って初めて定職を得る形で武蔵野美術大学に赴任した動機にも通じている。
宮本常一は、学生たちに旅を促し、そこで見出したものを元に現地の人々とともに新たな文化を構築していく様々な活動を行い、武蔵野美術大学の学生のカリキュラムの外側にあるインフォーマルな学びの先鞭をつけた。その中で、美術・デザインを学ぶ学生と研究者である教員の情熱とエネルギーへの信頼に確信を持ち、大学と社会との非対称な関係を問い直す視点を得ていったのではなかろうか。大学内部における激しい闘争と、大学の外側の社会に遍在する特権意識や既存の価値観の解体を目の当たりにして、宮本常一は改めてそれぞれの立場を超えて互いに啓発し合うハーモニアスな成長に、希望を見出しているようである。
教師はただ学生に向って教えるだけではなく、ともに伸びたいことを念願している。人は人に接することによって啓発せられる。教師もまた学生によって啓発せられるところがきわめて多いのだが、学生もまた教師を啓発するだけの抱負と努力をもってもらいたいものだと思う。
単に教師と学生の問題だけでなく、学生同士の間にも啓発しあうものがなければならぬ。それについてはすでによき芽がのびつつあるように思える。
(宮本常一「思うこと」 学園ニュース『武蔵野美術』 1968年11月6日、2頁)
註1:金子伸二「学園紛争と教育課程の改編」『武蔵野美術大学のあゆみ1929-2009』武蔵野美術大学、2009年、60頁
1973年、静岡県浜松市生まれ。武蔵野美術大学教養文化・学芸員課程教授、美術館・図書館副館長。和歌山県立紀伊風土記の丘学芸員(民俗担当)、東北学院大学文学部歴史学科教授(同大学博物館学芸員兼任)を経て、2019年より現職。博士(文学)。専門は民俗学、博物館学。
監修に武蔵野美術大学民俗資料室編『民具のデザイン図鑑―くらしの道具から読み解く造形の発想』(誠文堂新光社、2022年)。近著に『民俗学 パブリック編―みずから学び、実践する』(武蔵野美術大学出版局、2025年)、『民俗学 フォークロア編―過去と向き合い、表現する』(同、2022年)、『民俗学 ヴァナキュラー編―人と出会い、問いを立てる』(同、2021年)ほかがある。