評論家としての原弘
1935(昭和10)年、本学の前身にあたる帝国美術学校の図案工芸科講師に着任した原弘は、1940年までの在職期間中に二度、学友会誌『帝国美術』に寄稿している。今回はそのうち、1936年第5号に掲載された論考「ポスタアとその環境」を取り上げたい。
今となっては考えられないような話だが、グラフィックデザイナーの亀倉雄策やアートディレクターの太田英茂らが証言しているように、戦前の原はデザイナーというよりも学者や評論家であると目されていた。1920年代後半から30年代を通じて、ヤン・チヒョルトやラースロー・モホイ゠ナジらが展開した「ノイエ・ティポグラフィ」の理論の紹介に努め、印刷や写真の専門誌に頻繁に寄稿していたこと、あるいは、母校の東京府立工芸学校や帝国美術学校で教鞭を執っていたことなども、「評論家としての原弘」像を形成する要因となったと考えられる。
原弘『新活版術研究』東京府立工芸学校製版印刷科研究会、1932年(武蔵野美術大学美術館・図書館蔵)。本書は1920年代後半からの「ノイエ・ティポグラフィ」に関する原の研究成果をまとめた労作で、収録する論文の選択から、翻訳・編集・デザインまでの一連の作業をほぼ独力で手がけている。
実際に、「ポスタアとその環境」を発表した年の10月には、「美術批評家協会」の結成にも参加、商業美術の評論家として20余名の会員のうちの一人に名を連ねている。戦後は文筆の仕事以上にブックデザインやポスターの仕事に没頭していくが、それでもグラフィックデザイン界きっての理論派として知られ、海外のデザイン理論に裏打ちされた実践的知性の揺るぎなさは、田中一光をはじめとする後続のデザイナーからも畏敬の念を集めてきた。
「ポスタアとその環境」は、戦前の原が書いたものとしては少々異色の内容ではあるが、同時期に発表されたほかの論考と同様、本質を的確に捉えた明晰な知性と、時代を見抜く鋭い視点に貫かれていた。だが、デザインを取り巻く状況も大きく変化した今日、このわずか900字弱の短文から筆者の真意を汲み取るのは、困難であるのも事実だろう。ここでは、この論考がはらむ問題とその広がりを捉えるために、それがどのような文脈で、いかなる意図のもとに書かれたのか、いくつかの補助線を引きながら紐解いていきたい。
ポスターはどこにあるのか
この論考のなかで原弘は、ポスターそのものではなく、それが掲示される場所について論じている。なぜポスターの「環境」が問題となるのか――まずは、原の記述に従いながら、その論旨を整理してみよう。冒頭は以下のように始まっている。
ポスタアは今日までに種々な角度から研究されてゐるけれども、その研究に於て兎角ポスタア――特にシエレエ以後の所謂近代ポスタアの発達とその環境との関係に就いての考察が忘れられ勝ちである様に思はれる。
環境と云ふ言葉は漠然としてゐて当らないかも知れないが、僕が茲で云はうとするのは主としてポスタアの掲示される可き場所とその周囲の状態を指すのである。
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これに続けて原は、ポスターの歴史が都市の発達を抜きにしては語れないこと、そして、ポスターが都市を中心に発展しながらも、そのあり様は各国の都市の環境によって大きく異なることを指摘している。文中ではほかに、ヨーロッパの大都市に見られる「リトフアスゾイレ(広告柱)」や「ホオアデイング(掲示板)」などの具体例を挙げてそれらの不足を嘆いているが、こうした主張の背後には、ポスターとその環境との間に、単に作品とそれを掲示する場所という以上の、根本的な問題が潜んでいるという認識があった。原が力を込めて論じたのは、わが国のポスターの水準が西洋のそれに近づくためには、都市の環境――主としてそれが掲示される屋外の設備――に抜本的な改善が必要であるという点だ。環境がポスターの質に作用するとは、はたしてどのような意味なのか。少し回り道にはなるが、その含意を正しく受けとめるためにも、まずは日本のポスターが抱えていた特殊な事情を振り返っておきたい。
ポスターの近代
わが国のポスターの黎明を告げたのは、明治末に登場した「美人画ポスター」と呼ばれるものだった。これは、さまざまな点で近代的なポスターのあり方とは異なっていたが、この新しいメディアのもつ可能性を広く人々に知らしめたという点で、重要な意義を担っていた。美人画ポスターは、画家の描いた写実的な原画を、ときに30色以上にもおよぶ多色石版印刷により再現したもので、錦絵の伝統と西洋由来の石版印刷術の融合ともいわれる。商品の宣伝やメッセージの明快さよりも、美人画の複製(再現)に主眼を置いた絵画的傾向の強いポスターは、20世紀初頭から1930年代までその影響力を保持した。
これに対し、西洋の近代的なポスターの理念が社会に浸透し始めるのは、第一次世界大戦(1914–1918年)と関東大震災(1923年)を経て以降のことだった。原は東京府立工芸学校を卒業したばかりの1921年に、「世界大戦ポースター展覧会」(於有楽町・朝日新聞社)で欧米のプロパガンダポスターに接し、大きな影響を受けたと回顧している註1。
この頃を境に、「ポスター」という呼称が市民権を得るとともに、単純化された形態と色面による図案に、簡潔なメッセージや商品名などを大胆に組み合わせた、近代的なデザインが現れるようになる。
原弘ほか『大正十三年度卒業生実習制作』東京府立工芸学校製版印刷科、1924年(武蔵野美術大学美術館・図書館蔵)。府立工芸の製版印刷科で原が担当した、石版実習の教材用に手がけた図案。ポスターとして作られたものではないが、この時代のポスター図案の特徴と類似する点が多い。
ドイツ人のオットー・デュンケルスビューラーによるアール・デコ調のカルピスのポスターが登場したのは、震災翌年の1924年のことだった。
こうした、ヨーロッパから伝わった最新のポスターの影響は、図案家・杉浦非水らによる「七人社」(1925年)や濱田増治、多田北烏らによる「商業美術家協会」の結成(1926年)、雑誌『広告界』の創刊(1926年)などによって一気に広まっていく。非水が監修したポスター研究誌『アフィッシュ』の第1年第2号(1927年8月)に掲載された「所謂美人画ポスター観」という記事は、そのような意味でも、きわめて時宜を得たものであったといえるだろう。そのなかで非水が、近代的な商業図案としてのポスターの確立には、旧来の美人画ポスターとの訣別が必要であると主張したからだ。それは、原が論考中でいうところの「シエレエ以後の所謂近代ポスタア」の時代が、ようやく日本にも到来することを意味していた。
このように、西洋から移入された近代ポスターと在来の美人画ポスターとの間には、表現技法、印刷技術、メッセージの伝達形式のいずれをとっても大きな隔たりがあった。だが、「所謂美人画ポスター観」で非水が述べているように、ポスターを掲示する「場所」の問題こそ、両者の間に横たわる最も根本的な相違であった。というのも、美人画ポスターの多くは、百貨店や床屋などの室内に掛けられ、ゆったりと眺められる、鑑賞画のように受容されてきたからだ。そのことが長らく、日本におけるポスターのあり方を規定し、屋外の掲示場所の普及を妨げる要因ともなってきたのである。
論考のなかで原が「ポスタアとは街頭に貼付さる可きもの、と云ふ字義を此国ではポスタア自身が失つてゐる」と厳しく指摘した背景には、近代ポスターの理念が移入された後も、依然としてポスターが室内に掛けられていた状況に対する、強い不満が込められていた。原にとってポスターとは、「街頭美術となつて都会を彩る」か「街のギヤラリーとなつて大衆の観賞にそなへられる」べきものであって、間違ってもそれは、ショーウィンドーを飾ったり、建物の奥深くに掛けられる絵画のようなものではなかったのだ。
都市美とポスター
「ポスタアとその環境」が執筆された1930年代半ばは、日本のポスターの置かれている環境とその役割が大きな変容を迫られた時代であった。1923年に発生した関東大震災により壊滅的な被害を受けた東京は、「帝都復興」のかけ声とともに、わずか10余年のうちに驚くべき速度で近代化を果たした。先述のとおり、それは少なからず、デザイナーの意識に覚醒を促し、ポスターの表現にも影響を与えた。だが、いくら近代化が叫ばれ、都市が発達し、大衆に対する情報伝達手段としてのポスターの効用が喧伝されようとも、それが掲示される環境にまで思いが至らなければ、ポスターの存在理由はいともたやすく揺らいでしまう。原がこの文章の末尾で述べているのは、そうした懸念であった。
当時、銀座や丸の内周辺では、新たに造営された耐震・耐火の西洋建築が立ち並び、景観に配慮した都市計画が行われていたが、ひとたびほかに目を向ければ、いまだにバラックが乱立し、広告看板やネオンサインが氾濫するなど、新旧の都市の諸相が入り乱れた、混沌とした様相を呈していた。そうしたなかで、東京市を中心に、市民にシビックプライドの涵養を促し、都市計画のなかに美観をもたらすために活動していたのが、原が論考の末尾にその名を挙げた「都市美協会」であった。とりわけ、1935年から翌年にかけては、1940年に予定されていた「皇紀2600年」註2の祝典に合わせ、万国博覧会とオリンピックの同時招致を目指す運動が活発化し、都市の景観に対する興味が官民ともに高まりを見せた時期にあたる。国際的なイヴェントの開催を視野に、都市美協会もその発言力を強めつつあった。
原が「ポスタアとその環境」を発表したのは、万国博覧会とオリンピックの開催地発表を4カ月後に控えた1936年3月のことだった。都市美協会を中心に、都市の美観を損なう看板や貼り紙に対する取締強化が叫ばれるなか、原は規制をめぐる議論よりも、ポスターのための広告塔や掲示板の設置を促すことで、都市の環境面にかかわる具体的な施策の必要性を訴えたのである。
都市と写真の接点――大東京建築祭のポスターから
この都市美協会の会員には、堀口捨己、今井兼次、蔵田周忠、板垣鷹穂ら、建築や都市計画に造詣の深い帝国美術学校の教員が、多数名を連ねていたことが注目される註3。そのうち、原と都市美協会のいずれにも深い関わりがあったのが、美術史家の板垣鷹穂である。板垣は帝国美術学校に着任した1929年頃から、「機械美」にまつわる評論を立て続けに発表。都市、建築、写真、映画等を横断する批評活動を展開し、「機械時代」(マシン・エイジ)をリードする気鋭の評論家として注目を集めていた。
なかでも、写真家・堀野正雄と協働した本邦グラフの嚆矢「大東京の性格」(『中央公論』1931年10月号)は、1930年代初頭の東京に胎動する都市の種々相を、カメラ=「機械の眼」によって切り取り、客観的かつ即時的な伝達形式――板垣がいうところの「視覚的叙述の形式」――にまとめあげた先駆的な試みとして、のちのグラフ・ジャーナリズムの勃興へと繋がる重要な役割を果たした。
板垣鷹穂編集構成・堀野正雄撮影「大東京の性格」『中央公論』第46巻第10号、1931年10月(著者蔵)。p. 18には、右下に高田馬場駅構内の掲示板、左下に新宿松竹座前の広告塔が確認できる。p. 19はすべて、新宿のカフェ街の様子。
板垣の先見の明は、ポスターと写真に関するエッセイにも表われており、「観光ポスターに就いて」(1932年)、「新興写真の現在と将来」、「写真芸術の将来に就いて」(1933年)などには、いわゆる「新興写真」をはじめとする写真の新傾向とその印刷化の問題、それらがポスターに及ぼす影響についても予見的に語られていた。こうした板垣の批評活動は、1933年の「日本工房」への参加以降、「ルポルタージュ・フォト」(報道写真)と並走するかたちで展開された原の一連のグラフや、写真を利用したポスターの仕事を強力に後押しするものだった。
写真を軸とした原と板垣の交流が、都市とポスターをめぐる具体的な実践に結びついたのが、都市美協会が主催し、板垣が企画に関わった「大東京建築祭」(1935年6月8日、於日比谷公会堂)である。このとき板垣は、写真や映画に精通した専門家の立場から三つの企画を任されており、そのうちのひとつに建築祭の告知ポスターの製作があった。企画・板垣鷹穂、デザイン・原弘、写真・木村伊兵衛の三者によって製作されたポスター《大東京建築祭》(1935年)は、原が本格的に写真を使い始めた最初期のポスターにあたる。河野鷹思による松竹の映画ポスターと並び、本作は日本における「写真ポスター」に先鞭をつけた、きわめて重要な作品であるといえるだろう。
ポスター《大東京建築祭》都市美協会、1935年(特種東海製紙株式会社蔵)
仰角で撮られた木村の写真は、工業的な被写体の選択とその構図に、ドイツの「ノイエ・ザッハリヒカイト」(新即物主義)を代表する写真家アルベルト・レンガー゠パッチュの作品や、日本で展開された新興写真の影響が見てとれる。建築現場のクレーンと鉄骨の深い諧調に、背景の鮮やかなベタ面、そこに白抜きで浮き出された「大東京建築祭」のレタリング文字――これらがひき出す強いコントラストは、この時代のいわゆる「ティポ・フォト」的構成のポスターのなかでも、群を抜いて新しいデザインだった。
原は、都市の雑踏のなかで不特定多数の人々の目を捉え、即時的かつ的確にメッセージを伝えるためには、写真のもつ客観的なリアリティと訴求力が、何よりも有効であると考えていた。視覚的な伝達手段としての写真の力を最大限に活かしたこのポスターは、「街頭の美術」であることを第一義とする近代ポスターの展開を、さらに一歩、前に進めるものとなった。
なお、大東京建築祭は、都市美協会が主催し、東京府、警視庁、東京商工会議所などが賛助したことから、このポスターも市内各地に相当数が配布・掲示されたものと考えられる。残念ながら、ポスターが設置された際の写真は残されていないが、東京府を挙げての大規模な宣伝が行われただけに、ポスターの掲示方法をめぐっても、そのあり方が否応なく問われたに違いない註4。このときの経験もまた、原が「ポスタアとその環境」を執筆する、ひとつのきっかけとなったと思われる。
ポスターは過去のものか?
ここまで、「ポスタアとその環境」を切り口として、都市とポスターをめぐる1930年代の原弘の実践とその思考の跡をたどってきた。原にとってポスターとは、都市の群衆のなかにあって人々の注意を惹き、即時的にメッセージを伝える手段であるとともに、それ自体がひとつの美的な対象として、往来の目を楽しませ、都市の景観そのものをも形成するものであったことが、この短文から読み取ることができるだろう。
なお、原は戦後に、『武蔵野美術』第32号(1959年11月)にこの続編ともいえる「ポスターの環境」という論考を寄稿している。そこには、世界各国の都市におけるポスターの姿を原が視察した成果がまとめられているが、この時すでにポスターは、原自身によって「今日のコムミュニケーションの媒体としては、もはや過去のものに属する」とみなされていた。
原弘「ポスターの環境」『武蔵野美術』第32号、1959年11月(武蔵野美術大学美術館・図書館蔵)。
本文では各国の都市環境とポスター事情が細かくレポートされている。上図は補足説明のための図版ページ。左ページ左上に見える円筒形の設備が、原が文中で触れていた「リトフアスゾイレ(広告柱)」。
それからさらに60年以上の歳月を経た今日、ポスターはいまだに余喘を保ってはいるものの、その影響力が及ぶ範囲は当時よりもさらに狭まっている。現代の都市における広告媒体の主流は、さしずめ、駅に設置されているデジタルサイネージなどがそれに代わるのだろうか。あるいは、われわれはすでに、変容を続ける都市空間そのものがメディアとなる、まったく新しい時代を生きているのかもしれない。いずれにしても、これからの都市と視覚的な情報伝達のあり方を考えるうえで、われわれが過去のポスター表現とその環境にまつわる思考から学ぶことは、けっして少なくはないはずだ。