前史― 植民地朝鮮からやってきた留学生
「い つもとなりにいるから 日本と韓国、 アー トの80年 」(以下、 「い つとな展」 ) では、 第1章で在日コリアンに焦点をあてています 。在日コリアンとは、 日本の植民地であった朝鮮半島からわたってきて日本に定住したコリアンと、 その子孫のことを指します 。展覧会は19 45年 から現在にいたる80年 間をたどるものですが 、日本と韓国の現代美術の関係を考える上でも、 19 45年 以前のかかわりを押さえておくことは、 とても重要です 。そのため、 現代の背景である近代の歴史を引き継ぐ存在として、 展覧会のはじまりは在日コリアンを中心に据えました。
その第1章「は ざまに― 在日コリアンの視点」 では、 ムサビ註1 に通った在日コリアンの作品も、 5点展示しています 。ところで、 19 45年 以降に突然、 コリアンの学生がムサビに通いはじめたわけではありません。 19 29年 に創立された帝国美術学校の時代から、 19 45年 までに160名 以上の朝鮮人留学生がいたことがわかっています註2 。朝鮮からの留学生は、 西洋画科を選択した人が圧倒的多数でした。 日本の植民地時代(1910–19 45年 ) 、朝鮮半島には官立の美術学校が設立されず 、西洋美術を学ぼうとする朝鮮人は、 本場のヨー ロッパではなく主に日本の美術学校へ留学するという、 植民地下のねじれた西洋美術の受容構造があったためです 。
ムサビに通った在日コリアン
このように19 45年 以前にも、 たくさんの朝鮮人留学生がいたムサビ。 あこがれの先輩も通ったから… という理由でムサビを目指した在日コリアンがいても、 おかしくないと想像します 。在日朝鮮人美術の研究者で、 「い つとな展」 にも多大なるご協力をいただいた白凛さんの聴き取り調査によると、 官設の美術学校である東京美術学校(現東京藝術大学) に比べて、 私立で比較的自由なムサビの雰囲気は、 在日コリアンにも人気があったそうです 。「い つとな展」 では、 曺良奎(チョ・ ヤンギュ) 、白玲(ペク・ リョン) 、成利植(ソン・ リシク) というムサビに通った在日コリアン美術家3名の作品を紹介しています 。
曺良奎(チョ・ ヤンギュ 1928–? )
展覧会のはじまりを飾る曺良奎は、 19 48年 に日本へ密航し、 翌19 49年 の春からムサビに通いました。 生活のために3年足らずで中退してしまいますが 、東京枝川の朝鮮人が集住する地域で家畜を育てながら暮らし、 倉庫番やマンホー ルの清掃員といった労働者として生計を立てながら、 絵を描き続けました。 19 50年 代にわたって日本で画家として活動を続け、 当時の日本美術界から高い評価を受けていましたが 、19 60年 に朝鮮民主主義人民共和国へ「帰 国」 します 。
曺良奎の故郷は、 朝鮮半島のほぼ南端に位置する晋州(チンジュ) です 。在日コリアンの9割以上が現在の大韓民国の出身といわれますが 、19 59年 からはじまった「帰 国事業」 によって、 19 80年 代まで、 多くの在日コリアンが共和国へわたりました。 現在、 韓国と日本で確認されている曺良奎の作品は10点 にも満たない状況ですが 、ただいま横浜美術館には、 そのうちの3点が並んでいます 。
「い つもとなりにいるから 日本と韓国、 アー トの80年 」曺良奎作品、 資料展示風景(横浜美術館、 2025–26年 ) 撮影: 加藤健
白玲(ペク・ リョン 1926–19 97)
「帰 国事業」 がはじまった19 59年 に描かれた白玲の《私 も祖国へ》。 共和国へ向かおうとする堂々 たる母と子の姿を描いた作品です 。白玲はムサビ在学中にシュルレアリスムに傾倒し、 その後、 社会主義の理想を写実的に描くリアリズム絵画へと移行しますが 、この作品はその過渡期に位置づけられます 。現実味を帯びない背景の木や雲の表現と、 「帰 国事業」 という社会的な主題が組み合わされているところが 、非常に興味深い作品です 。
白玲は19 30年 に4歳で日本へやってきました。 19 45年 の朝鮮半島解放からすぐ、 韓国にわたって政治活動を行いますが 、米軍統治下の故国の状況に落胆し、 日本へ戻ってムサビに通い、 美術家となります 。19 53年 には日本青年美術家連合の結成に加わり 、中村宏、 河原温ら戦後の前衛芸術を率いた日本の作家たちとも、 活動をともにしました。
白玲《私 も祖国へ》 19 59年 、油彩・ カンヴァス、 115.6✕90.3 cm、 一般社団法人在日コリアン美術作品保存協会
成利植(ソン・ リシク 1930–20 16)
成利植は19 49年 にムサビに入学しているので、 歳は違いますが 、曺良奎と同期ですね。 赤い屋根が印象的な《風 景》 は、 19 61年 の渋谷区広尾を描いたものです 。渋谷区大山町に金昌徳(キム・ チャンドク、 日本名: 高橋進。 19 56年 から在日朝鮮美術会会長、 行動美術協会でも活躍) の自宅兼アトリエがあり 、ここには成利植をはじめ、 曺良奎などの美術家のほか 、音楽家、 文学者、 映画監督といった、 多くの在日コリアンの芸術家たちが集いました。 この作品は、 その在日コリアン芸術家たちのたまり場であった金昌徳の家からそう遠くない場所で描かれていて、 19 50年 代に東京の一角に集った在日コリアン美術家たちの記憶と思い出が 、ぎゅっとつまっています 。
成利植《風 景》 19 61年 、油彩・ カンヴァス、 58.5✕71 cm、 一般社団法人在日コリアン美術作品保存協会
このあたりのことをもっと知りたい方は、 白凛さんの『在 日朝鮮人美術史19 45– 19 62 美術家たちの表現活動の記録』 (明石書店、 20 21年 ) を、 ぜひお読みください。 曺良奎と白玲がとなりあっている在日朝鮮人美術家たちの集合写真が掲載されていたり(186頁) 、曺良奎が成利植の個展に寄せた展評などについても書かれています(79頁) 。
社会学者のハン・ トンヒョンさんは、 「い つとな展」 を評して「『 こ こでいつもとなりにいたのは実は在日コリアンだった』 と気づかせてくれるような展覧会」 と書いてくださいました註3 。日本と朝鮮半島の間に国交が回復するのは、 19 65年 。19 45年 から約20年 間、 朝鮮半島と日本の間には国交がありませんでした。 19 65年 の国交正常化も、 半島の南側半分である韓国とのみ行われました。 19 65年 以降現在まで、 韓国からは、 再びたくさんの留学生がムサビに通っています 。けれどもその前から、 在日コリアン、 そして植民地朝鮮からやってきた留学生が 、途切れることなく、 ムサビという場にいたのです 。
いつもとなりにいるから?
19 62年 、ムサビはそれまでの吉祥寺校地から、 現在の鷹の台キャンパスに移転します 。ここで、 19 59年 にすでに現在の場所に移転していた朝鮮大学校(朝鮮大) と、 となりあうことになります 。展覧会のタイトルである「い つもとなりにいるから」 は、 日本と韓国の地理的な関係「の み」 を言語化したものとして、 横浜美術館館長の蔵屋美香が発案しました。 まさに位置関係としては「い つもとなりにいる」 ムサビと朝鮮大。 展覧会では、 両校の在校生と卒業生が実施したプロジェクト《武 蔵美✕朝鮮大 突然、 目の前がひらけて》 (20 15年 ) を、 メンバー たちの近作とともに、 最終章で紹介しています 。
このプロジェクトは、 塀一枚をはさんで隣接する両校に「橋」 をかけ、 その「橋」 をわたることで両校の敷地内の展示を鑑賞する、 というかたちに具現化されました。 しかしながら、 物理的視覚的な結果物としての「橋」 以上に、 根気よく続けられたメンバー 同士の「対 話」 が 、このプロジェクトの核を成しています 。
「い つもとなりにいるから 日本と韓国、 アー トの80年 」鄭梨愛、 灰原千晶、 李晶玉、 土屋美智子、 市川明子展示風景(横浜美術館、 2025–26年 ) 撮影: 加藤健
「い つとな展」 の最終章は「と もに生きる」 というタイトルにしました。 最後にこの言葉が必要だったのは、 裏を返せば「と もに生きられなかった」 歴史があり 、現代においてもそれはまだ、 実現をみていないということです 。「と もに生きる」 ことは、 自分とは異なる他者と向き合い、 それにともなう困難や痛みを受け入れ続けることでもあります 。ただ「と なりにいる」 ことと、 「と もに生きる」 ことは、 おそらく大きく異なります 。「い つもとなりにいるから」 … ? そのあとにつづく言葉は、 展覧会をみたひとりひとりが 、繋げていってほしいと願っています 。
横浜美術館学芸員。 国立新美術館を経て、 20 16年 より現職。 日本帝国占領下の朝鮮半島で開催された「朝 鮮美術展覧会」 の日本人画家たちについて学位論文を執筆し、 慶應義塾大学大学院美学美術史学専攻修士課程を修了。 2010–20 11年 、ソウル大学大学院人文学科考古美術史学専攻交換留学。 国立新美術館での主な担当展に「アー ティスト・ ファイル2015 隣の部屋― 日本と韓国の作家たち」 (20 15年 ) 。