1977年にムサビの日本画学科を卒業後、教務補助や助手を経て、2012年から2024年3月まで同学科の教授を務めた西田俊英先生。奥村土牛と塩出英雄のもとで学び、在学中に「日本美術院展覧会」(以下「院展」)に初入選しました。学生時代から教える側に立つに至るまでの、ふたりの師との記憶。そして、彼らから受け継がれた「なにも教えない」という教育スタイル。約半世紀にわたる物語から、日本画学科の系譜がありありと浮かび上がります。

生涯でやるべきことがすべて書かれた、塩出先生からの手紙

僕には、奥村土牛先生と塩出英雄先生という師がいます。ここにあるのは、塩出先生からのお手紙。僕は1988年に、先生の弟子として初めて院展の同人になったんですね。同人とは日本美術院の最高位で、運営にも携わる作家のこと。そのことを祝ってしたためてくださったものです。ふだんは自宅の玄関ロビーに飾ってあり、1日1回は必ず眺めています。

インタビューは西田先生のご自宅で実施

「拝啓」から始まり、同人になったことへのお祝いに続いて、僕の人生の節目にまつわることや、先生からの教えが7つの歌として書いてあります。

まず10行目くらいに「朝熊山」とあるでしょう? これは僕の生まれ故郷の伊勢にある山です。朝熊山(あさまやま)には金剛證寺という臨済宗の禅寺があり、僕が中学生くらいのときにそこの住職から少し仏教のことを教えていただいたと、塩出先生にお話ししたことがありました。それを覚えていらっしゃったようで、「朝熊山金剛證寺の禅僧に 幼くして君は いつくしまれし」と書いてあります。

ムサビを出たあとのことは「土牛先生の門下に入りて 日本画の道を学べり 忘るるなゆめ」と。「忘るるなゆめ」は、私が2016年に2回目の回顧展を開いたときのタイトルにもなった、71歳になるいまでも反復する大切な言葉です。つまり、「君はこれからいろんなことをやっていくけれど、最初に自分がなにをしたかったのか、抱いた夢を忘れてはいけないよ」ということだと思います。人から評判を得たりすることで、少しでも図に乗っていると感じたときは、この言葉を思う。そうすると、慢心を抑えて冷静さを取り戻すことができます。

続く「一歳(いちねん)を印度に学びて 東洋の深き心を 君は得にけり」というのは、1993年、文化庁の新進芸術家海外研修員としてインドに1年間留学したときのことです。横山大観、菱田春草、そして岡倉天心も、インドが東洋の美術の源流であるとして勉強に行っている。それを受けて塩出先生も「君もインドに行って東洋の深き心を学んできたのだろう」と言われているんですね。
そしてさらに「同人に推されたり君に 院展の後年を託す」、院展の未来を託すよということが書かれている。

次の「天心 大観 土牛の心を受継ぎて 一生をはげみ みがきゆくべし」。ここの「一生をはげみ みがきゆくべし」っていうのがまたね……時代錯誤だと捉えられてしまいそうなので、僕は学生にはなかなか言えない言葉ですが、言わないだけで一番大事なことだと確信しています。

最後は「意は遠きを尊ぶと言へり」。これは画意、つまり絵の心というのは、身近なことだけではなくて、精神性を持って遠くの彼方を考えることこそが尊いことだよと。続く「東洋の画道は深し 学びつとめよ」という結びは、優しくもあり、強い言葉でもあって。画道以外はない、迷うなという意味合いも込められていると思います。

この手紙に、僕が生涯のなかでやるべきことがすべて詰まっている。僕に対する遺言のような意味合いも込めてくださったのかもしれません。

学生時代、先生はとにかくなにも教えてくれなかった

師弟関係のたとえで、よく「1杯の水」という表現が用いられます。師から受け取った1杯の水を一滴残らず飲んではじめて、師に学び、教えや技を習得したことになる。少しだけを飲んでも受け継いだことにはならないんです。

でも、いまの時代の学生が飲むのはほんのちょっとなんでしょうね。僕は広島市立大学、ムサビと2つの大学で約23年間教えて、それはもういろんな学生に関わりました。全部を受け渡すつもりで教えても、それこそちょこっと味見をするぐらいで、いまの教育は成り立ってしまっているところもあると思います。

ムサビの日本画学科でも、4年間のあいだに満遍なく教えます。茶道でいうところのお点前の所作みたいなものはだいたい身につく。でも大事なのは、1杯の水を飲み干すほどの、合点がいく学びができたかということなんです。いまは現代美術評論家や、日本画とはまったく違うジャンルの方を講師として呼んだり、教授のなかには現代美術のアーティストもいて。日本画だけではない選択肢も取れるような環境はつくっているんだけど、それ以上のことをいかに教えているかというと、少し難しい問題があるかもしれません。

一方、僕が学生だったときにはどう教わっていたか。僕がムサビに入学したのは1973年で、当時の先生と学生の関係性は、いまのようにフレンドリーな雰囲気とは違いました。先生方は厳かで、雲の上の存在。そんななかで、当時主任教授だった塩出英雄先生、そして麻田鷹司先生と毛利武彦先生の3名は特に印象的でした。

麻田先生は非常に理知的で的確な指導。無駄なことはおっしゃらないんですよね。「この色とこの色は、合っていると思いますか?」などと、一人ひとりに的確に投げかけます。毛利先生は学生の悩みなんかを自分のことのように受け止めて、「悩んでいるんだよね、君は……ここから抜けられるといいよねえ……」という感じでおっしゃる。その言い方がすごく優しくて、本当は「こうしたほうがいい絵になる」と答えがわかっているはずなのに、学生と同じ目線に立ち、寄り添いながら、本人が見つけ出すまで待つんです。だから僕たち学生には、非常に優しい兄貴分みたいな存在としてすごく親しまれていました。

我が師匠となった塩出先生は、ほかの先生と違い、とにかくなにも教えてくれませんでした。学生が絵を描いている教室に先生が来ると、皆んなシーンとなる。で、一人ひとりの背後に立ち、絵をじーっと見ていくんです。そうやって15分くらいいて、なにも言わずにまたすっと出ていく。学生は緊張が解けた瞬間に「今日は西田のうしろに随分いたよね」とか「俺なんか3秒だぜ」とか言い合ってね。短いのも困るけれど、10分くらいずっと後ろに立たれることもあって、それはもう緊張します。背後が気になるし、質問したいときもあるけど、怖くてなにも言えないんです。

講評会でも、麻田先生と毛利先生が理知的なことをおっしゃり、次に塩出先生に「先生はいかがでしょうか」と話を振ると、「……うん、そういうことです」と。そうすると麻田先生や毛利先生はほっとされて「じゃあ、次」って、その繰り返しです。ムサビに入学する前、先生というのは、見本みたいなものを描いて「こうしなさい」と言ってくれるものだと思っていたので、本当になにも教えてくれないことに衝撃を受けました。

ムサビを卒業した1977年、僕は塩出先生に誘われて教務補助(のちに助手)として研究室に入りました。そうしたら、1週間も経たないうちに、塩出先生の知られざる一面に触れることとなりました。学生にはあんなになにもおっしゃらなかったのに、研究室では先生方の皆様の質問攻めを受けて、毎回のように勉強会を繰り広げていたんです。塩出先生が仏教や哲学、茶道の深い精神性について話し、先生方は一生懸命に耳を傾けていました。「そんなに難しいことじゃないんですよ」と、物事をかいつまんで丁寧にご説明される姿に、こんなにも広い心の持ち主だったんだということを、研究室に入って初めて知りました。

塩出先生が70歳で定年を迎えられたとき、僕も同じく日本画研究室での助手の任期をちょうど終える年だったので、その1年間、先生のお見送りするためのいろいろな手続きを担当させていただきました。そのころの先生は、深い人生観のある、老境に達した学者のような、とっても高貴な巨匠でした。僕も2023年に退任の70歳になったのですが、すべてがまだまだ浅いというのか、あのころの先生とはずいぶん違うなあと思ったものです。

西田俊英《惜別・櫻》2007年 郷さくら美術館蔵/塩出英雄の7回忌の際に描いた作品。「先生を忘れがたい惜別の思いと、それでも進まなければとの覚悟の思いを、白馬と振り向く女性の姿に重ねました。塩出先生も奥村先生も師の7回忌に桜の絵を描いたので、僕もどうしても描きたかったのです」

あきらめずに絵を描き続けることの大切さ

僕と塩出先生の個人的な関わりでいうと、1年生のとき、奥村土牛先生の展覧会をすすめていただいたのが最初でしょうか。渋谷の道玄坂の上にあった東急百貨店の本店で大回顧展があったときに、「いま奥村土牛という人の展覧会をやってるから、観に行くように」と勧められました。それが、塩出先生が帝国美術学校(現:武蔵野美術大学)の学生だったときからの師であり、僕も後に弟子入りすることになる奥村先生の作品と出合うきっかけとなりました。

僕は高校時代までは油絵をやっていたのですが、高校を卒業した年に訪れた1カ月半のヨーロッパ旅行をきっかけに、日本画に転身しました。本場の油絵を観てまわった結果、俵屋宗達や尾形光琳など、江戸時代から続いている“日本人にしか描けない絵”を描きたいと思い至り、ムサビの日本画学科に入ったわけです。

でも当時の日本画は、その存在意義が問われた戦後の“日本画滅亡論”を経て、油絵のような厚塗りなど、新しい表現が次々に生まれていました。だから「あれ? 日本画なのに油絵と変わらないじゃないか」と。そんななかで出合った奥村先生の絵は、まさに僕の理想とする日本画だったんです。無駄なことが省かれ、大事なものがすーっと浮かび上がってくる。牛や鳥といったモチーフだけが描かれているのに、なんという精神性の深さなんだろうと感じました。ただ、当時の僕の力では、奥村先生のような絵が描きたいと思っても描けませんでした。

転機が訪れたのは3年生の夏休み。少し大きな絵を描いたときに、たまたま研究室の助手さんがそれを見て「西田くん、こんなに大きな絵を描いてるなら、度胸試しのつもりで一度院展に出してみたら? 僕も出品するから、トラックで運ぶお金を割り勘しよう」と誘ってくださったんです。院展のことはあまり知りませんでしたが、奥村先生や塩出先生が審査員を務めていることを知り、それならば出してみたいと思いました。それで、たまたま入選してしまったんだよね。

主任教授である塩出先生に会場で会った折に、「このたび院展に入選しました、学部3年の西田です」と報告しました。てっきり「君のような天才を僕は待っていたんだ! おめでとう!」と言ってくれると思ったら、すごく悲しそうな顔をされて、「えっ、君……入選しちゃったの?」とおっしゃるわけですよ。とまどいながら「はい、入りました」と言うと、再び「あ、そう……入っちゃったのか……」と。そして、「いいかい、これから長いと思うけど、やめるんじゃないよ。絶対続けなさいよ。じゃあね、がんばって」と去っていかれました。おめでとうのひと言もなく、「あれ? なにかまずいことしたのかな?」と思ったものです。

でも、いまならわかります。そのとき先生はきっと「この子はこれから厳しい道に入ることを、まったくわかっていないんだろうな……それでもこっちに足を踏み入れたんだったら、絶対やめないように言ってあげたいな」と考えてくださっていたのではないかと。一度きりのまぐれとか、1枚の絵がたまたま入選のレベルに達することもあるけれど、最も大事なのは続けることなんですね。絵をあきらめずに続けていくことの大切さを、そのあと僕もいやというほど経験しました。塩出先生からの手紙にある「忘るるなゆめ」という言葉には、まさにそんな思いが込められていると思います。

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西田俊英

元武蔵野美術大学造形学部日本画学科教授(在任:2012-2024年3月)。1953年三重県伊勢市生まれ。中学から油絵を学び、高校卒業後に日本画に転向。73年武蔵野美術大学造形学部日本画学科に入学し、奥村土牛、塩出英雄に師事。在学中の75年再興第60回院展で初入選後、83年第7回山種美術館賞展優秀賞、84年第4回東京セントラル美術館日本画大賞展大賞受賞。93年文化庁在外研修員として1年間インド留学。再興院展で研鑽を重ね、95年日本美術院賞(大観賞)・第1回足立美術館賞、96年奨励賞・第2回天心記念茨城賞、97年日本美術院賞(大観賞)、2002年文部科学大臣賞、05年内閣総理大臣賞、06年第12回足立美術館賞、12年第18回MOA岡田茂吉賞絵画部門大賞、14年第10回春の足立美術館賞、17年日本芸術院賞など多数受賞。日本芸術院会員、日本美術院同人・業務執行理事、広島市立大学名誉教授。