1977年にムサビの日本画学科を卒業後、教務補助や助手を経て、2012年から2024年3月まで同学科の教授を務めた西田俊英先生。奥村土牛と塩出英雄のもとで学び、在学中に「日本美術院展覧会」(以下「院展」)に初入選しました。学生時代から教える側に立つに至るまでの、ふたりの師との記憶。そして、彼らから受け継がれた「なにも教えない」という教育スタイル。約半世紀にわたる物語から、日本画学科の系譜がありありと浮かび上がります。
横山大観から脈々と続く教育姿勢
ムサビを卒業したあとに、塩出先生が「僕は奥村土牛先生のところで勉強していているんだけど、西田くんを一度引き合わせたい」とおっしゃってくださいました。それで、兄弟子の方に連れていってもらい、奥村先生のところにご挨拶に行きました。先生は玄関の床に着物姿で正座をして「僕は弟子をとらない。でも一緒に研究をしたいとおっしゃるなら、やりましょう」と。そのときの先生は、なんていうか、後光がさしているようでね。姿や立ち居振る舞いが神々しいだけでなく、一つひとつの言葉にすごく重みがありました。
先生の言葉を受けて、僕は研究会に参加させてもらうようになりました。「八幡会」という、院展に出品するための絵の塾です。会合では永福町にあった奥村先生のご自宅近くの大宮八幡宮の大広間に、奥村先生を慕う弟子たちが50人くらい集まります。指導されるのは奥村先生、塩出先生に岡本彌壽子先生という3人の先生。1点ずつ作品を壁に立てかけ、奥村先生がそれをじっと正座してご覧になるんです。でも、やはりなにも言いません。やがて奥村先生は、塩出先生か岡本先生に目でちょっと合図する。その頃合いを見て、「次の人」という形で進んでいきました。
奥村先生はなにも言いませんが、ときどき絵を指さすことがありました。大きい絵なので、どこをさしているのだろうと皆んなきょとんとする。で、塩出先生が「奥村先生、そのあたりでしょうか」と言うと、「うん」とうなずくのみです。でもこうしなさいとは言わずに、そこがいいという意味なのか、ダメなのかすらおっしゃらないんですよ。自分で考えるしかないのです。
そういう“なにも教えない”スタイルは、横山大観先生から受け継がれたものだとあとで聞きました。奥村先生は帝国美術学校(現:武蔵野美術大学)や東京美術学校(現:東京藝術大学)、女子美術大学で教員を務められていましたが、最初に帝国美術学校から声がかかったとき、大観先生のところに行って「こういう要請を受けたのですが、私ごときが教えていいのでしょうか」と聞いたらしいんですね。そのとき大観先生が、「大変喜ばしいことだから、後進のためにお引き受けしなさい。ただ、ひとつだけ条件がある」と。その条件というのが「なにも教えてはいけない」だったのです。それを奥村先生は忠実に守られました。
その後時を経て、塩出先生にムサビの教員にならないかと声がかかったとき、きっと同じように奥村先生に「教員として呼ばれたのは大変よろこばしいこと。ただし、教えてはいかんよ」と言われたのではないでしょうか。僕がムサビに入ったころ、塩出先生はすでに60歳代。1984年、塩出先生が70歳で定年退任する日に、僕も助手を退任しました。時代はどんどん移り変わっていっているのに、「なにも教えてはいけない」というのを頑なに守られたのが、奥村先生であり塩出先生なんです。
僕が最初に教授になったのは2000年、広島市立大学芸術学部でした。平山郁夫先生が、藝大に匹敵するくらいの芸術大学を中国地方につくりたいということで誘っていただいたのです。そのとき、すぐに塩出先生のご自宅に行って「平山先生から要請を受けたのですが、教えに行ってよろしいでしょうか」と伺ったら、「ぜひお受けしなさい」と。そしてやはり「ただし、ひとつだけ言っておく。きみはなんにも教えちゃいけないよ」と言われました。「出た!」と思いましたね(笑)。
僕以外の先生たちは全員藝大出身で、理路整然と教えるのが特徴でした。なぜここの空間が弱いか、この色とこの色がどうして合わないかというのを理論的に説く。「うまい絵の描き方」と言ったら語弊があるかもしれないけど、まずい絵を描かないように、絵画的構造を工夫し努力を積み重ねていきながら、しっかり試行錯誤を繰り返し教えていくというのが藝大流だったんだと思います。
そんななかで、新米のくせになぜか教授という偉い立場にされてしまった僕は恐縮していたのですが、塩出先生から「なにも教えてはいけない」と言われていたので、講評会でも黙っていたんですよ。もしかしたらほかの先生は僕のことを無能だと思っていたかもしれません。僕はそれ以降も藝大流の教え方を唯々、黙したままで学生のように学ばせていただきした。

教える側に立ち、ムサビの自由奔放さを感じた
広島市立大学の教授に就くにあたって、塩出先生に「教えず、なにをしたらよろしいんでしょうか」と聞いたら、「自分の絵を描きなさい」とおっしゃいました。「絵を教えるために行くんじゃない、人をつくるために行くんだと思うようにしなさい」と。きみが人として成長しないかぎり、人に教えるなんてできるはずがない、だから絵を描くことで、人間力を鍛えることが大切なんだと伝えたかったのだと思います。僕は僕の絵を描いて、それに必ず通じ合う学生がいる。そのとき、先生はああいう生き方をしていて、そこからああいう絵が生まれるんだということを黙って感じさせることが大事なのではないかと考えました。
広島へは東京の自宅から通っていたので、毎回宿泊していました。夜がもったいないので、スケッチブックを持って山の中に入り、月明りのなかで絵を描いたりするんですね。あるとき学生にその話をしたら、「連れてってください」と言われて。それで後日、昼間から学生たちを連れて山に行きました。
まずは昼間はふつうにスケッチしてもらい、そのあと山のロッジみたいなところで皆んなで食事を作り、夕暮れ近くになったらまた山の中に入っていって。聖湖という山湖の原野で、全員をほったらかすんですよ。「暗くなるにつれて周囲もスケッチブックも見えなくなってくるけれど、目が慣れてくると必ずなにかが見えてくるから、それを写し取ってもいいし、じっとしていてもいい」と、僕はそれしか言わないんだけど、昼間描いたうまいデッサンとは違う世界が現れてくる。夜は毎日訪れ、空はこんなにも真っ暗になって、でも目を凝らして見ると星が瞬いていて……そんなことを経験させるだけなんですけどね。でも皆んな、絵が変わるんですよ。空間への意識が変化するからか、それまで描いていたゴテゴテとしたものがふーっと消えて、大事なものを描くことや、ものが見えなくなっても存在するというのはどういうことかがわかってくるのだと思います。僕の授業といえば、そんなふうに「経験させる」ものばかりでした。
ムサビの教授になったのは2012年、59歳のときです。広島市立大学はのどかな場所にあるせいか、皆んな素直で一生懸命描くんですよ。朴訥と描き、地を着実に踏み締めるように成長していくようなところに好感を抱いていました。そのころからときどき非常勤でムサビにも顔を出していて、校風の違いをすごく感じていましたね。
ムサビの良さは、とにかく自由奔放なこと。やっぱり都会の学校なんですよね。僕が考えもつかないようなことや、日本画から一見逸脱したようなものを描く学生が多かったように思います。知識をどんどん取り入れて、それを消化していようが未消化であろうが、自分の絵にぶつけて試行錯誤することを、エネルギーを爆発させるようにやっていた印象があります。我が母校でありながら、とても画期的だなと。同時に、ひょっとしたら地に足がついていないんじゃないだろうかという懸念もありました。徒花のようにポツポツと咲いて、またさらなる刺激を求めて移っていくような。でもそれが、現代を生きるということなのかなとも思っていました。斬新なものに対して頭ごなしに怒るようなことはもちろんしてはいけないし、肯定してあげることが大事。僕自身の伝え方も、ずいぶん変わっていったと感じます。
ただね、「なにも教えない」というのは本当に難しい教え方なんです。奥村先生の門下生だって、その真意がわかる人は50名中5、6人です。あとの人はいつまでもわからない。禅に近いような教え方なので、先生のことをまるごと理解するしかありません。僕はいつも、自分が描こうとしている世界を奥村先生はいかに乗り越えたのか、それを見出そうと奥村先生の絵を観ていました。答えは奥村先生の絵のなかにあるんですよ。でも皆んな自分の絵を描こうとするし、先生はなにも教えてくれないからやきもきする。1杯の水を1滴残らず受け継ぐことの難しさって、きっと描き方云々ではないんでしょうね。
いまでは、奥村先生も、塩出先生も、具体的に「画」の表現技法を教えてくれなくてもよかったと思うようになりました。教えてもらっていたら、先生方とそっくりな絵を描いて満足していただろうし、それで「奥村土牛の絵と比べて西田の絵はちょっと安いからそっちを買おう」とかね、そういう絵描きになっていたかもしれない。「画」は、その人の人間性で描くものだと教わったおかげで、塩出英雄とも奥村土牛とも違う絵を描けるようになりました。

芸術で大事にすべきは人間の普遍性
塩出先生の作品には風景画が多かったのですが、まるで契りのように、山や海、湖をありのままに受け入れていました。何度かスケッチに同行させていただいたのですが、淡々と一木一草をすべてそのまま描くんですね。変にアレンジしたりしないんですよ。全部を受け入れながらそれを簡略化した形で描いていって、絵が成り立っていくんです。
2001年に塩出先生が亡くなられたときに読まれた毛利先生の弔辞で覚えているのが、「塩出先生は日本画家で唯一雲を描かなかった」という言葉です。風景画家というと、たいていは霧や雲、月、日の出、夕陽なんかを入れるんだけど、塩出先生はそのどれも描かなかった。それに、ふつうは絵が一般受けするようになにかしらぼかしてみたりするんだけど、塩出先生はひとつもぼかさないんです。だから、塩出先生の絵は仏画のようにまやかしがなく、空はいつも晴天で。なんで晴天なんですかと聞いたら、一番好きだからとおっしゃっていました。それが仏の世界として最も飾っていない、本来あるべき風景なのでしょう。

その姿勢は、僕のなかにも生きています。自然を描くときは屋外に何時間も座っていますから、突然霧が出たり雨が降ってきたりする。その様子をすべて描きます。霧を描いたほうが絵がよくなるからじゃなくて、目の前で起こっている現象を、神が与えてくれたものだと思いながら、あるがままに受け入れていく作業なんですね。
それは、横山大観先生が制作の原点とした「気韻生動(きいんせいどう)」にもつながります。気韻生動というのは、風景や宇宙のなかにある生々しい動きのこと。すべては常に動き、移り変わっていて、かちっとしたものではないと。それを描くのが日本画であり、東洋の精神だという考え方です。
気韻生動は、現代美術がこんなに盛んになったいまにも通じるものだと思います。たとえば、伊藤若冲や雪舟の展覧会をやると、大行列になるじゃないですか。昔の人が、昔の考え方で描いた絵なのに、なぜ現代人が憧れるかというと、それらが忘れたものを確かめるための古い絵ではなく、いま現在生きている、LIVEの絵だからなんですよ。骨董品を眺めるときのように「昔の人はこんな感覚を持っていたのかなあ」という気持ちで観る人のほうが少なくて、完全にいまの美術だよねって。名画には、時代を超えた普遍性があると思います。
最近はニューヨークのアートシーンでも、主流がポップアートから精神性の高い芸術へと戻ってきていると聞きました。きっといまは昔に帰依するような時代なんです。単なる懐古主義ではなくて、大事なものは時代を超えて繰り返し訪れるということです。進化しているようで実はそうではないものも、僕はすごくたくさんあると思う。人間には時代が変わっても変わらない要素があって、芸術はまさしくその部分を大事にしなければなりません。日本の古画の展覧会に列をなす人たちも、それを絵の中に求めているのではないでしょうか。そのことは、これからのムサビの教育でも大事にすべきだと思います。
元武蔵野美術大学造形学部日本画学科教授(在任:2012-2024年3月)。1953年三重県伊勢市生まれ。中学から油絵を学び、高校卒業後に日本画に転向。73年武蔵野美術大学造形学部日本画学科に入学し、奥村土牛、塩出英雄に師事。在学中の75年再興第60回院展で初入選後、83年第7回山種美術館賞展優秀賞、84年第4回東京セントラル美術館日本画大賞展大賞受賞。93年文化庁在外研修員として1年間インド留学。再興院展で研鑽を重ね、95年日本美術院賞(大観賞)・第1回足立美術館賞、96年奨励賞・第2回天心記念茨城賞、97年日本美術院賞(大観賞)、2002年文部科学大臣賞、05年内閣総理大臣賞、06年第12回足立美術館賞、12年第18回MOA岡田茂吉賞絵画部門大賞、14年第10回春の足立美術館賞、17年日本芸術院賞など多数受賞。日本芸術院会員、日本美術院同人・業務執行理事、広島市立大学名誉教授。