三雲祥之助と小川マリ。​ともに画家であり夫婦であった二人が住んだ家である。​彼らに子どもはなく二人だけで住んだ家であった。​
家は二つのアトリエを中心にして建てられていた。​アトリエは仲良く並んでおり、​ひとつは18畳ほど、​もうひとつは15畳ほどの広さがあった。​アトリエとしてはそれなりの広さである。​また二つのアトリエは共通した仕様を持っていた。​コンクリートブロック(以後ブロック)むき出しの壁、​4メートルを超える天井高、​北側の壁面を占める大きな採光窓である。​そこには簡素だが満ちる光があった。​

18畳のアトリエの方を祥之助が使っていたのは、​残された写真から見て間違いなさそうだ。​壁に囲まれた空間は制作に集中することができたであろう。​方、​15畳の方は空間としては独立しておらず、​ダイニングキッチンと半ば一体化していた。​食事づくりはマリの役目だったようで、​家事をこなしながら制作していたのだろう。​つまりここでの日常は食卓の傍らに制作の現場があるというものだった。​

マリは、​そして祥之助は、​このような環境で十分にくつろぐことができたのだろうか。​家には他に寝室と中2階(作品庫)と玄関ホールがあるのみ。​絵を描くことに特化した家であった。​夫妻がこの家を建てたのはともに52歳時。​もう住まいにロマンチックな夢を載せる年齢ではなかった。​二人は家ではなく、​アトリエに住むことを決意したのだ。​

三雲祥之助《家り》1957年彩、​キャンバス 99.0✕131.0 cm
蔵:武蔵野美術大学 美術館図書館

三雲祥之助の《家り》という油絵作品は三雲邸の建設風景と言われている。​中央に裸の三雲夫妻が立っている。​背景に建設現場が描かれており、​背後の人物はブロック積みで建設に参加した学生たちというわけだ。​だが不思議なのはこの絵が三雲邸を再現していないことだ。​背後の二つの構築物は独立した壁のようで建物の一部という感じがしない。​背後右側の人物は左官仕事をしているようだが三雲邸に左官仕上げをした箇所はない。​

それよりもこの人物は中央の祥之助に似ていないか。​すると手に持つ左官コテがペインティングナイフに見えてくる。​左側の赤と青の人物はどうだろう。​一人はマリだろうか。​あるいは二人は学生だろうか。​こうしてみると《家り》は三雲邸の建設風景としてだけでなく、​絵造りを家造りになぞらえた作品として解釈することもできるかもしれない。​あらためて画面中央の二人に目をやると「私たちは家を造るようにこつこつと手順を踏み、​絵を描いていきます」と宣言しているようにも映る。​

アトリエに入って目にした壁は衝撃だった。​ブロックとブロックの間の目地の荒さが尋常ではなく、​とても室内の仕上げとは思えなかった。​近所のブロック塀の方がずっときれいだと感じた。​ブロックを積む際に当時の学生たちが手伝ったという逸話を信じるに値する素人の手の痕だった。​夫妻がこの荒いテクスチャーを許容したのも、​目地が学生たちの手の痕だとすると理解できる。​壁は建設時の出来事を記憶しているのだ。​

そしてもうひとつ《家り》に見られるように、​祥之助が絵を描くことと家を建てることの間に相通じるものを感じていたことも大きいだろう。​油絵は一筆ずつ重ねられた絵の具の痕跡がマチエールとなって表情を作る。​一方で三雲邸はブロックをひとつずつ積み重ねてゆくことで姿を表し、​その痕跡である目地が建物の表情を作る。​目地をマチエールとすればこれもひとつの表現だ。​家を建てるにあたりブロックを選択したのは、​素人でも建設に参加可能であり、​なおかつ手の痕跡が表情となってゆく構法の特性にあったのではないだろうか註1。​

三雲邸の中でひとつだけ象徴的にデザインされている箇所がある。​二つのアトリエをつなぐ開口に架かるアーチである。​ここを訪れた誰の目にも強い印象を残す。​アーチは本来の組積造ではなくコンクリートの梁を成形した擬似アーチである。​表面のはつり仕上げ註2は鮫皮を連想させる荒々さ。​触れると怪我をしそうだ。​だが、​もしもこのアーチがなかったなら、​アトリエは無機的な倉庫のようなものに感じられただろう。​

アーチの開口はアトリエの中央に堂々と開けられ、​しかも扉を持たない(機能面から考えれば、​扉は必要かもしれないし、​開口がアトリエの中央にある必要はない)。​この二つの判断によって、​二つのアトリエが互いに独立しながらもつながっているという両義的な関係が象徴的に示されることになった。​これは夫妻が求めたもの、​あるいは夫妻の関係そのものだったに違いない。​

もういちど祥之助の《家り》に目を向けると、​中央に立つマリの右手の指先が祥之助の右腕に軽く触れていることに気がつく。​二人はここでも自立しながらつながっているのだ。​

註1

ブロック造の建物はすでに明治時代後半には日本で建設されていた。​第二次世界大戦後に燃えない材料を安価に供給しようとする国策もあり一定の普及をしてゆく。​三雲邸が建設された1954年はこの普及の時期と重なっている。​

註2

たがねとハンマーを使ってコンクリートや石の表面に凹凸をつける仕上げ。​

小倉康正

おぐら・やすまさ

1961年長崎市生まれ。​1988年武蔵野美術大学大学院造形研究科建築コース修了。​1994–2023年武蔵野美術大学建築学科非常勤講師。​2010–16年「笠間の菊まつりプロジェクト」を主催、​2013年同活動で竹山実賞受賞。​

著作に『第2寮へと続く廊下 武蔵野美術大学2号館』、​『開け放した扉 武蔵野美術大学中央機械室・第1倉庫』ど。​