先輩から後輩へ――知る人ぞ知る、ある「課外活動」
鷹の台キャンパスを正門から入り、1号館をくぐって美術館前広場を右斜め前方へ進むと、タイル敷き前庭の向こうに8階建ての12号館が建っている。私が在学していた1990年代半ば、講義室は1号館とこの12号館に集中し、階下には学食もあって、学生が1日に1回は訪れる場所であった。
12号館のエントランスフロアには大きな掲示板があり、エレベーターホールへの入り口右側に『学生用掲示板』と白いプレートがある。この真下を、相沢韶男教授(1943–2023、在職:1977–2014)は学生への連絡に使った。すでに掲示物があれば「悪いな」と横へずらし、自分のお知らせを定位置に貼る。TeamsもLINEもなかった時代、こうしたアナログ的掲示物が学生と相沢先生との通信手段であり、それは主に「課外活動」のためであった。
私が先生による課外活動をきっかけに、北海道平取町二風谷にある資料館――萱野茂二風谷アイヌ資料館――に通うようになって2026年でちょうど30年になった。学生の頃に出会った小学生は二児の父となり、幼い子どもたちは私たちを「ムサビ」と呼ぶ。カレンダーには「ムサビ来る」「ムサビ帰る」とあり、私たちが通うのはあくまでプライベートながらも、大学の名の大きさを痛感する。
この「課外のまなび」コラムに寄稿されている小島孝夫さんは、その資料館とムサビが縁を持つことになった最初の活動メンバーのお一人である。縁はメンバーを指揮した相沢先生を通じ、のちの私たち、やがては後輩たちへと繋がっていった。単位や成績とは無関係の課外活動。美大らしく「絵の力」で二風谷と関わった学生は、小島さんたちの代から2000年代初頭までのべ40人余と先生は記している註1。
プロジェクトがあるときだけの、顔ぶれもつど変わる自由な「課外」。告知には「ここ」という場所を定める必要があったのだろう。いそいそと貼り出す先生は、悪戯を仕掛けるかのように楽しげであったことを思い出す。
萱野茂二風谷アイヌ資料館では、1996年に私たちが描いた絵を今も展示してくれている。額装の経年劣化がめだってきたため、2026年に仲間たちと貼り直した(キャプションも順次整え直す予定)。学生時代にお世話になった二風谷の人たちは、会うと「よく通い続けているよねぇ」と変わらず接してくれる。
ぼんやりした学生生活のはずだった
私が二風谷に通い始める前、二風谷へと繋がるもうひとつの課外活動があった。
相沢先生はムサビの建築学科出身で自身も卒業生である。在学中に宮本常一に師事し、日本のみならず世界中を見て歩き、福島県会津地方の宿場町・大内宿の景観保存に身を投じた。村人の生活と生業を調べ尽くし、「あの人のなかにあるものはすべて聞いた」と言い切るまでに半世紀もの時間を積み重ねた。しつこく、こだわりに労を惜しまない人でもあった。
学生に対しても同様で、学費から講義1コマあたりに学生がいくら払っているかを計算し、それに見合った、むしろそれ以上のものを学生に返すのが教員の務めだとよく話していた。先生が民俗学に続き文化人類学の教鞭をとるようになったのは1990年のことで、早々に「学生は南米音楽に関心が強い」と感じたという。
1994年、ぼんやりした学生だった私は、宮本先生のことも相沢先生のこともよく知らないまま、ムサビ1年目を過ごしていた。文化人類学の履修は、一般教養の単位が必要なら少しでも興味のあるものをという消極的な理由からで、私の文化人類学のノートは授業で紹介されたニューギニアの人々の衣装スケッチばかりの、講義内容はおまけ程度の殴り書きという有様である。
学生生活にも慣れた頃、7号館401講義室の高い窓から秋の斜陽が差し込む季節になって、先生は受講生に「ボランティアスタッフをやらないか」と呼びかけた。説明の内容も、なぜ自分が手を挙げたのかも覚えていない。サークルとは無縁だったから、その代わりくらいの軽い気持ちだったのだろう。油、日本画、彫刻、視デ、空デ、基礎デ、工デ、建築、映像から総勢33人の学生が集まった。なかには前年や前々年にスタッフを経験した先輩たちもいた。
そもそも「ボランティアスタッフ」とは、である。
先生いわく、文化人類学の1年間最後の授業に「南米フォルクローレの生ライブをやる」という。それもプロの演奏家を招き全学開放の課外講座にする、その運営を学生有志でやってくれ、というのだ。1991年に始まったライブは、この年4年目を迎え、文化人類学の年末の恒例行事になりつつあった。
学生スタッフが制作し学内に掲示した告知ポスター。作りたいものが作りたいように作った。
怒涛の一か月。調べる、描く、刷る。ひたすら塗る。
スタッフは、告知用のチラシやポスター、当日配布のパンフレット作り、そのための資料集めやイラストカットの作成、機材や道具類の手配など、想像以上にやることが多かった。それらを各自、授業と並行しながら約ひと月の間に準備する必要があった。
特にこの年の大きな仕事は、ライブステージの背後を飾る垂れ幕の制作である。先生は「彼らは格安のギャラで来てくれている。御礼がしたい」と言い、彼らが大事にしているイラストを拡大し垂れ幕に仕上げることになった。大きさは、3メートル四方ほどだったと思う。
工デのスタッフを中心に、工デ研究室とテキスタイルの教授にも助言をあおいだ。工程表では11月29日に作業を始め12月9日のライブに間に合わせているから、かなりの突貫工事である。学生スタッフの誰も既存の絵を拡大し布に再現した経験はなく(もちろん相沢先生も)、初めての作業を一発勝負で決めねばならなかった。
学内の一室を作業場として借り、垂れ幕も道具も置かせてもらい、それぞれあいた時間に行っては着色を進めた。5限目の後から正門が閉まるまでの短い時間にも作業をした記憶がある。
垂れ幕制作の様子とスタッフで共有した進行の工程表。
並行してパンフレットも制作する。課外とはいえ授業の一環、スタッフは南米について調べ、フォルクローレや楽器について調べ、前年のパンフレットを参考に原稿を書き、カットイラストを描きおろした。「こういう内容にしたい」と言えば、先生からNOがあった記憶はない。当時は大学にもようやくMacが導入された頃で、制作は手作業が基本である。スタッフの原稿は先生が研究室の98式パソコン(PC-98)で出力し、カットイラストを切り貼りし版下を作って、12号館6階の輪転機にかけた。
相沢先生には、自身でこだわったものもあった。
12号館6階にあった先生の研究室は、他の先生方と違って廊下までものが溢れていた。室内は書籍に紙や映像資料(あの頃はVHS)、CDやレコードに数年分の学生のレポートで天井まで埋め尽くされ、かろうじて残された手狭なスペースで、先生がこつこつ組み立てていたのが真空管アンプであった。
真空管いじりは先生の若い頃からの趣味で、年末ライブを始めた年に「ガラスで増幅された音を学生に聞かせたい」と思い立ち、4年をかけ組み上げたという。真空管は以前から集めていたらしく「ソ連を旅行中に買おうとしたらスパイに間違われた」と嘘か本当かわからないことを言い註2、「絵を描くってのはスパイの特殊技能のひとつだぞ」とも言った。「誰か真空管を継いでくれないか」とも言っていたが、退任後ご自宅にあったということは、現れぬままだったのだろう。
ともかく先生の自作アンプはこの年、満を持してのデビューである。ぜひパンフレットで紹介したいというのが、先生からの数少ない要望だった。私自身はその仕組みがさっぱりわからないまま、先生の指示のままに図を描いて載せた。B5・中綴じ・20頁。製本を終えたのは当日2日前と工程表には書き込まれている。
相沢先生が書いたアンプのメモ。「右」と「左」の国の配置、左右をつなぐ部品には永世中立国のスイスと、とかく「理屈」を込める人であった。
さらに怒涛のライブ当日――異文化の風に踊れ!
当日も慌ただしい。課外講座は18時30分開始ながら、一部のスタッフは朝の10時30分から動き始める。文化人類学3限目の授業にあわせ、昼休みと同時に7号館401講義室へ運び込めるよう、先生の研究室から機材を移動(この頃の7号館にエレベーターはない)。その間に来校するメンバーを出迎え、当日の進行を説明。彼らは3限目にも数曲を演奏してくれるので、夕食のタイミングを確認する。4限目まではほとんどのスタッフに授業があるから、手の空いたところでかわるがわる仕事をした。なにせ会場の7号館401講義室が4限目まで使えない。垂れ幕のセッティングはどうする? 黒板が上下スライド式、S字フックを引っ掛けてあげてしまえ。
力技である。
1994年に制作した垂れ幕。上下スライド式の黒板にひっかけて持ち上げた。元絵はペルーの画家ヘスース・カリャ氏の作品で、アンデスという土地に生きる人々の強さをメンバーのイメージに重ねて描いたものという。
準備作業。音響をセッティングする先生。下段に真空管が見える。右はスポットライト用のカラーフィルムを準備するスタッフ。
16時30分、本格的にスタッフが集合。開場までのおよそ90分間で、音響機器、スポットライトのチェック、録音、録画機材の位置決め、お客さんの動線の確認、進行用マイクテストなどを一気に終わらせる。「前座」と称したスタッフのレポート発表もリハーサル。工程表には「18時までに(食事を)食べる。食べているところは客に見せない」「ステージを雑巾がけ」「指示がない限り決して楽器には触れない、触れさせない」と細かい。そうして課外講座の幕は開く。7号館401講義室はあっという間にいっぱいになった。
相沢先生はパンフレットにこうしたためた。
「文化人類学は野外の学問でもあります。できれば学生を地球の裏側へ連れて行って、異文化を理解させ、多様な物の見方があるのを知らせたいのですが、とても受講生800人の全員を引率するのは不可能です。そこで異文化を本学へ持ち込み、現場の一部を作り出すことを考えました。」
南米のリズムに学生たちはうずうずと、やがて衝動のままに立ち上がり、ぎこちなくも全身で踊り出す。ムサビ最大の講義室は、数百人のオーディエンスが熱狂するライブ空間へと変貌し、その盛り上がりには大学職員が「7号館が潰れる!」と青ざめるほどであった。
翌日、残りの片付けをすませたところで、その年のスタッフは解散となった。

「彼ら」との出会いがもたらしたもの
ムサビに来てくれていた「彼ら」の話もしたい。
バンド名を「Los Tres Amigos」といい、ボリビア人のカルロス、アルゼンチン人のサルトール、ペルー人のリッキーからなる3人組。伝統的な曲から自作のものまで演奏は幅広く、もともとは、ムサビの学内でケーナを吹いていた学生がリッキーさんと知り合いで、この学生が文化人類学を受講していて…というのが、相沢先生が彼らをムサビに招くきっかけだったらしい。
3人とも日本語が堪能でサービス精神も旺盛、プロの彼らには学生スタッフなど拙いことばかりのはずなのに、いつも陽気でご機嫌。曲目も、年ごとに先生が考えるテーマに細かく応じてくれた。
私が2年生の1995年、カルロスさんに事前インタビューをしたことがあった。配布用パンフレットで楽曲の詳細を紹介したいと先生を通じて打診したところ、応じてくれたのだ。当時の筆耕にはこうある。
「ムサビね、必ずこうしなきゃって何もない。先生が『楽しいコンサートをまたやりたいな、やる気ある?』って言うの。僕は『いいねえ』って答える。『学生みんな頑張ってるからね』って。サルトールも『あの大学パワーあるね』って言うんだ。」
母国ボリビアでは軍政の動乱を経験し、来日後は教育テレビ(現Eテレ)の子ども向け番組で日本語を覚えたという。「苦労話はしたくない」とも言い「ボリビアの首都ラパスは標高3000メートルある。ボリビア人だってね、高山病になるんだヨ」と嘘か本当かわからない話で笑わせてくる。
私は南米を訪れる機会はいまだないが、彼らと出会っていなければ、ボリビアやペルー、アルゼンチンを身近に感じることはなかっただろう。五感を使って体感すること、生身の人と人とが接すること、そのことによって本のなかの知識、映像の向こう側にあるものが、確かな手触りと質量を持って私のなかに立ち上がる。その得難い体感が、課外活動にはあった。
左からルイス・サルトール、ルイス・カルロス、リッキー・ロドリゲスのお三方。いつもどおりの立ち位置。彼らは昼前にはムサビにやってきて、3限目の文化人類学の授業内では機械を通さない「生の音」を聴かせてくれた。
大学の外へと開いてゆく「課外」の扉
1995年は1月に阪神淡路大震災、3月には地下鉄サリン事件が起きた。世界ではユーゴスラビア紛争がこの頃である。日本は就職氷河期に入り、先生は「学生の表情が暗い」「年末の1日くらい楽しく過ごそう」と5回目のパンフレットに綴った。
12号館地下なら踊れると会場を移し、真っ平な展示室にはモデル台を重ねてステージを作り、自立パネルで空間を区切った。メンバーには踊れる曲をリクエストし、カルロスさんがステップを手ほどきして、学生たちは輪を作って踊った。
私はこの時期、並行して別の課外活動に関わっていた。『アイヌ語辞典』註3の挿絵を描く――この有志募集も、12号館の掲示板、あの定位置にある日、掲げられたものだ。
1年目にライブスタッフをしたおかげで12号館に行くたびに掲示板を確認する癖がついていた私は、「先生がまた面白いことを言い出した」と深く考えもせずに研究室を訪ねた。アイヌの「ア」も知らない無知で呑気な学生であった。
集まった11人にはライブスタッフで一緒のものもいて、週に1回、授業後にアイヌの記録映画を見、相沢先生の解説を聞いた。資料を漁り、絵を描いて、著者の萱野茂さん註4に確認をとり、修正する。ライブが終わり大学が冬休みに入ると、12号館に集まってはひたすら線を引いた。
アイヌについて学ぶうち、萱野さんの故郷・二風谷へ「行ってみたい」という気持ちが皆に湧いた。萱野さんと相沢先生とで話し合いがあったようで、萱野さんが館長を務める資料館の展示を手伝う、その課題が私たちに与えられた。無知な学生が二風谷へ転がり込むための「名目」である。1996年3月、私たちがたどり着いた二風谷は、真っ白な雪景色のなかにあった。
1995年にはもう1枚、垂れ幕を制作し贈った。「脚立には男子が登れ」と先生は口酸っぱかったが、今見るに男子学生にしてもヒヤヒヤする設置風景。右は入り口でパンフレット配布の様子。12号館地下の展示室では1995年、1996年と続けて行い、1997年からふたたび7号館に戻った。

南米フォルクローレのリズムの多種多様さは、重層する歴史からくる。アンデス先住民のものに、南米を植民地とした欧州の楽器や音楽、労働者としてアフリカから連れてこられた人々のリズムがさまざまに融合し、複雑なリズムとなった。学生には難しくもあったが、メンバーは易しいものを手ほどきしてくれた。下は記録用カメラを手に学生たちの様子をみている相沢先生。
「課外活動」のその先
「かくも離れた地の音楽が、どうして我々の心に響くのか」と先生は問う。
「文化や環境が違うと同じことも違って見えます。これを理解しないと紛争の原因が生まれることは歴史が何度も証明してきました。(中略)異文化を学ぶ機会を若者に与えることは、紛争をなくし、平和をさぐる最も有効な方法なのだと私は信じています。」
2001年を最後に相沢先生が文化人類学の担当を降りたことで、年末の「課外活動」も11年で幕を下ろした。それから25年、このコラムを書くにあたって久しぶりにカルロスさんにお会いした。私を見るなり「武蔵野美術大学!」と満面の笑みで迎えてくれたカルロスさんは、「ムサビでのライブは僕たちもすごく勉強になった。そう、最後の年にもらった『卒業証書』、今も大事にとってあるよ!」と、白髪になっても変わらぬ人懐っこさで当時を振り返った。
一方「南米に学生全員を引率することは不可能」と嘆いた先生は、二風谷への扉を私たちに開いた。私は卒業後も二風谷を訪ね、萱野さんが亡くなった2006年以降は仲間たちと毎年資料館に通い、ご家族のご厚意のもと、ささやかな手入れを続けている。
各年の配布用パンフレット。文中の相沢先生の言葉の多くはここから引用した。
1998年造形学部視覚伝達デザイン学科卒業。在学中に『萱野茂のアイヌ語辞典』(三省堂、1996年)の挿絵を描いたことをきっかけに地域の民俗に興味を持つ。編集デザイン会社勤務を経て、宮本常一門下で相沢韶男の兄弟子にあたる姫田忠義が所長の民族文化映像研究所機関誌『民映研通信』編集を10年ほど、土地に暮らす “名人” に高校生が聞き書きをする『聞き書き甲子園』(聞き書き甲子園実行委員会)作品集制作などに携わる。地域やインドネシアでのフィールドワークに参加のほか、近年は国立ハンセン病資料館企画展「お父さんお母さんへ」(2025年)展示映像用イラストなど。