「父のことが書かれてまして、​嬉しくてお電話いたしました!」

「『帝国美術』を読む」シリーズの(2)として2025年8月号に掲載された「磯部陽「私の蒐集郷土玩具に就て」(第2号)、​「郷土玩具」(第3号)」では、​福島県出身の帝国美術学校 本科 工芸図案科の学生であった磯部陽が『学友会誌』に投稿した文章を紹介した。​入学後に故郷の農村風景の魅力を再発見し、​それが凝縮された造形物として東北地方の郷土玩具収集を進めた磯部陽は、​開学して間もない帝国美術学校の機関誌に、​望郷の念を込めてみずからのコレクションを紹介したのである。​

2026年6月のある日、​私は研究室で一本の電話を受けた。​「父のことが書かれてまして、​嬉しくてお電話いたしました…」、​100年前の工芸図案科の帝美生、​磯部陽の長女である磯部和子さんが、​心から慕ってきた亡き父のことが掲載されていることを知ってお電話をくださったのである。​思いがけず父の若い頃の文章に触れ「夢のような感じがした」と喜びを伝えられると同時に、​父の資料や作品が手元にあるとのことで、​今回ご自宅に訪問することとなった。​

代表作のひとつ「箱根の秋」

その前に、​見ておきたい作品があった。​お電話の折に磯部和子さんから、​横浜のシルク博物館の常設展示室内にパブリック・コレクションとなった磯部陽の作品があると伺ったのである。​作品名は〈箱根の秋〉、​絹地にろうけつ染の技法を駆使した、​いわゆる “染彩画” の大作である。​同館の記録によると、​シルク博物館が銀座の高級服地専門店で無地の紬を購入し、​その紬布を支給して染めてもらったという。​

同館の沿革によれば、​開館10周年記念の年の1969(昭和44)年に展示施設の大幅な改装を行っていることから、​常設展示にシルク素材による美術作品として新たに加えるために依頼し、​翌年購入したものと考えられる。​

磯部 陽〈箱根の秋〉1970年(購入)、​シルク博物館所蔵、​紬地臈纈染、​145✕360 cm

望郷の絵画作品と会津の郷土玩具

磯部和子さんのご自宅を訪ねると、​玄関には茨城県商工信用組合(現・茨城県信用組合)カレンダーのために磯部陽が制作した染彩画が飾られており、​さらに大切にされている形見分けの作品やスケッチなど関連資料を見せていただいた。​

磯部陽は、​1911年福島県会津若松市生まれ、​本名は「陽」と書いて「きよし」と読む。​後年、​これを「よう」と名乗るようになるが、​帝国美術学校時代は「きよし」と呼ばれていたであろう。​少年期を同地で過ごした後、​磯部陽は中学校から上京し、​東京国士館中学校に進学した。​その中学校時代に、​帰省した折に描いた故郷の農村の風景を描いた水彩画を、​和子さんは今も部屋に飾っている。​その後磯部は1930(昭和5)年に帝国美術学校 本科 工芸図案科に入学(5年制)した。​

本学の卒業生の「学生原簿」に磯部陽の名前を見つけることができた。​それによると「修身」と「体操」「実習」は毎年履修する科目で、​それに加え一年次には「東洋美術史」「心理学」「文芸思潮史」「仏語」、​二年次には「西洋美術史」「哲学概論」「英語」、​三年次には「建築史」「仏語」、​四年次には「美学概論」を履修している。​そして最終年度の五年次はいよいよ「卒業制作」であるが、​成績はなんと100点であった。​

磯部 陽 題名不詳 1920年代後半、​個人蔵、​紙に水彩

学生時代に​磯部陽が寄稿した『学友会誌』第3号「郷土玩具」の64頁には、​​故郷の農村で「モンペ姿の農夫達一家の⻨踏みと只無邪気に遊びまはつてゐる子供等」に「素朴なそして高雅な生活」を見出して感動し、​近くの商店に飾られていた「古ぼけた真赤な玩具」を見つけてこの日の追憶のためにと買い求めたと記されている。​

和子さんは、​小さな起き上がり小法師と、​赤い練物の人形を父の形見としている。​前掲の磯部陽が寄稿した「郷土玩具」には、​「起姫。​養蚕の守護として何れの農家にも飾られてある。​一寸八分位で型は細長い。​」とあり、​会津若松の練物とともに紹介されている。​

磯部陽が収集した起姫と会津若松の練物人形

帝国美術学校の染色教員人事をめぐる騒動

磯部陽は1974(昭和49)年10月4日に亡くなったが、​追悼の新聞記事(「新いばらき」1974年11月21日)によると、​当時の帝展に出品された木村和一の染色屏風のろうけつ染作品に心を打たれたという。​木村和一の年譜によれば、​1933(昭和8)年の第14回帝展で特選となっており、​磯部はその作品を見たと思われる。​

帝国美術学校創始者の一人である金原省吾の日誌を纏めた「学校日誌」(金原省吾著『武蔵野美術大学 大学史史料集 第一集』、​武蔵野美術大学大学史史料委員会編、​1999年)という史料がある。​そこから、​磯部陽が在籍した帝国美術学校初期の染色教育と、​磯部がろうけつ染めを始めるきっかけとなった木村和一が授業を担当するまでの顛末を探ると、​人事をめぐって学生を巻き込んだ騒動に発展していたことが見えてくる。​磯部陽もその渦中にいたのである。​

帝国美術学校 本科 工芸図案科で染色・刺繍を教えていた渋江終吉が、​1933(昭和8)年9月28日心臓麻痺で亡くなった。​

1933(昭和8)年9月30日
「渋江氏の告別式にゆく。​図案科生そこにて万端取行ひくれ居る。​」

後任人事はすぐに動き出した。​金原と北昤吉、​杉浦非水でまず話し合い、​最初の候補となったのは武樋貞治であった。​

1933(昭和8)年10月2日
「渋江氏後任としては武樋貞治君が良いと思ふ。​上野美術学校出で、​新井君より二年位上級にて、​渋江氏を助けて染色刺繍をし、​広川氏の弟子也とのこと。​」

新井君は助手の新井三男、​広川氏は東京美術学校図案科でろうけつ染めを教えていた広川松五郎であろう。​当時、​図案工芸科の藤井達吉があまり出校しないことが問題となっていたため、​金原は藤井を訪問したことが記されているが、​「学校日誌」には藤井から後任人事について受けたアドバイスとして「武樋君は知ってゐるが、​広川氏すぎて不可。​山形駒太郎氏よしといふ。​」(同日)と書いている。​

さらに、​「武樋君については、​渋江氏のあとをするには苦労であらう。​むしろ渋江氏と同等の力ある山形駒太郎氏がよいと思ふといひし事を伝へる。​杉浦氏は山形氏を光風会に推挙せし関係ありてよく知ってゐるが、​少し性質がむづかしいかといふ。​」と記している(同日)。​最適の候補者は、​すぐには出てこなかったのである。​

その翌日、​今度は後任人事に対して学生が反発し、​名取堯に直談判するという騒動となる。​

1933(昭和8)年10月3日
「朝早く名取氏くる。​昨夜図・五の佐藤基君来て、​新井君が武樋君を推挙せるものにて、​渋江氏の後任に確定すると新井君いひ(杉浦氏はこの人をよく知らず)しも、​一緒にやりてよく知ってゐるも、​技術は朱華会員におとり、​染料のことなどは宮永(図、​四)におとる。​山形氏を望むといひし由を伝ふ。​」

候補者の武樋貞治の実力は、​学生の宮永、​学生団体の「朱華(はねず)染色刺繍研究会」のメンバーにも劣るのだという物言いは、​さすがに誇張が入っているであろうが、​断固反対する学生の怒りから、​当時の帝美生の情熱的な振る舞いに驚かされる。​直談判を受けた名取も困惑したであろう。​

帝国美術学校の校長の北昤吉としては、​助手の新井三男が人事のことを学生に漏らし、​学生の反対運動につながった今回の騒動を問題視し、​金原が新井に事情聴取をすることとなった。​

1933(昭和8)年10月9日
「事情はかうらしい。​通夜の夜、​佐藤、​宮永、​磯部、​岩渕がゐて、​広川氏に座談的に後任のことを相談した。​そしたら武樋君が助手位によいかと思ふといふことで、​それを杉浦さんに話してみてくれといふ程度のことで、​新井君はその間何も策動してゐないといふことである。​」

急死した渋江終吉の通夜で、​参列した東京美術学校の広川松五郎と “座談的” な会話の輪に、​助手の新井や図案科の学生たちもおり、​磯部陽も同席していたのである。​

新井を通じて杉浦に、​武樋を助手として推薦したらどうかというのが、​その真相だったようであるが、​その後助手候補だったはずの武樋貞治が講師候補となったことから、​学生の代表として佐藤基が直接名取堯を訪ねて抗議したのであった。​

「学校日誌」によれば、​最終的に渋江の後任は10月16日の金原省吾、​杉浦非水、​名取堯のミーティングで決着することとなった。​

1933(昭和8)年10月16日
「校長の意向もありて、​今は渋江氏後任のみを考ふ。​これには杉浦氏の説にて木村和一氏とし、​木村氏には杉浦氏うけほふ。​」

候補に上がった武樋貞治、​山形駒太郎の両方を取り下げて、​それまで名前の上がっていなかった木村和一で決定するまでの経緯は、​「学校日誌」ではわからない。​渋江終吉の通夜での後任人事の “座談的” な会話の場で、​その年の帝展で磯部陽が作品に感動した木村和一の名前を挙げる場面もあったかもしれない。​

帝国美術学校から多摩帝国美術学校へ

帝国美術学校で同盟休講事件が起こり、​学校が分裂した年に磯部陽は帝国美術学校を卒業した。​磯部が慕った木村和一は1935(昭和10)年、​帝国美術学校を退職し、​直後に多摩帝国美術学校図案科教授に就任したことから、​磯部も教員の木村和一についていく形で多摩帝国美術学校へ移った。​

今回の記事作成にあたり、​多摩美術大学が1952(昭和27)年10月に文部省に提出した「多摩美術大学設置認可申請書類」に添付されていた磯部陽の「履歴書」を閲覧させていただいた。​それによると、​磯部は1937(昭和12)年9月から多摩帝国美術学校 工芸図案科の助手となり、​1943(昭和18)年4月には助教授となったが、​翌年に休職している。​磯部和子さんによれば、​太平洋戦争の激化とともに、​磯部家は愛知や岐阜に疎開、​終戦を迎えると再び学校に呼び戻され、​キャンパス内の粗末な建物で一家は暮らしたという。​

情勢が落ち着いてくると、​多摩造形芸術専門学校として再スタートした美術学校で、​学校事務も行いながら学校内に住み込みで染色を教えたというが、​「履歴書」では1950(昭和25)年に多摩造形芸術専門学校 本科 工芸図案科に編入学し、​翌年3月に卒業と同時に多摩美術短期大学講師となり、​1952(昭和27)年の多摩美術大学設置認可の際には図案部担当の専任助手に就任することに同意している。​

当時、​同大学の工芸図案科には、​杉浦非水をはじめ、​グラフィックデザインの先駆者のひとりである山名文夫、​舞台美術家で「考現学」の活動で知られる吉田謙吉、​建築家の今井兼次、​民藝運動に参加した芹沢銈介、​そして磯部が慕った木村和一などそうそうたる面々が名を連ねていた。​そうしたなかで、​磯部陽はとくに当時の杉浦非水理事長から、​作家として自立していく上で、​直接の薫陶を受け、​作品に非水への敬意を込めて「翠」の銘を入れることもあった。​

染彩画家として独自な表現へ

戦後から高度経済成長期へと時代が移るなかで、​磯部一家は上野毛から溝の口の寮へ、​そして稽古に来ていた弟子たちの計らいで横浜市に移り、​拠点を神奈川県の反町(たんまち)の工房を置くこととなった。​この頃には大作を依頼されるようになるとともに、​ろうけつ染めを教えながら、​和紙にろうけつ染めで制作したクリスマスカードやポストカードなどを輸出向けに制作するなど、​仕事の幅を広げていった。​

磯部陽による和紙にろうけつ染めで描かれた海外輸出向けポストカード 個人蔵

ろうけつ染めには、​一般的には蝋が冷めにくいチャンチンポットを用いて線を引くが、​磯部陽は筆のみで巧みに細い線を引く。​それが独自の絵画的な作品を成立させており、​帝国美術学校で学んだ絵画や図案の基礎が、​ろうけつ染め技法による独自な染彩画に活かされている。​

晩年は、​戸板女子短期大学でもろうけつ染め技法を教えつつ、​1974(昭和49)年には支援者の勧めもあって工房を茨城県稲敷郡美浦村に構えた。​霞ヶ浦を望む工房で、​茨城県商工信用組合のカレンダー制作をはじめ、​多くの依頼で作品を制作した。​このカレンダーには、​茨城県の景勝地や、​県内に残された貴重な植物など、​郷土的な画題はたいへんな評判を呼び、​次は郷土芸能や郷土玩具を取り上げようと相談しているなかで、​磯部陽は不慮の事故で倒れ、​その後63歳で亡くなった。​土浦京成百貨店、​水戸京成志満津百貨店で予定されていた大規模な個展は、​結果的に遺作展となってしまった。​

磯部陽が手がけたカレンダー(1969年)個人蔵
カレンダーの原画となった作品 個人蔵

100年前の帝美生、​それぞれの人生

磯部陽は帝国美術学校2期生のひとりであったが、​同盟休講事件を契機に学校が分裂すると、​心から慕っていた杉浦非水や染色の木村和一について多摩帝国美術学校へ移り、​のちに教員となった。​大学を離れた後は、​作家としてさまざまな制作に取り組み、​〈箱根の秋〉をシルク博物館に収めた時の肩書は、​「神奈川県染色工芸会会長」であった。​晩年、​磯部陽は茨城県に移り、​依頼作品と作品展のための制作で充実した制作を続けていたが、​病に倒れて展覧会は遺作展となった。​

学校史という大きな流れを描き出していく過程では、​個々の卒業生の人生が輪郭をもって見えてくることはあまりないが、​今回思いがけず磯部陽のご遺族とお会いすることになり、​さまざまな制作の資料を拝見させていただくことで、​100年前の帝美生が、​卒業後さまざまな紆余曲折を経て生涯をかけた技法と表現に向き合っていく姿に触れることができた。​

卒業生一人ひとりの人生と制作の営みに対する想像力を大切にしながら、​今後も100年の歴史を掘り進めていきたい。​

謝辞:本稿作成にあたり、​磯部和子さん、​シルク博物館の高橋典子館長にご協力をいただいた。​また、​多摩美術大学大学史資料室の米山建壱氏には多摩美術大学側の記録についてご教示いただいた。​心から感謝いたします。​

加藤幸治

かとう・こうじ

1973年、​静岡県浜松市生まれ。​武蔵野美術大学教養文化・学芸員課程教授、​美術館・図書館副館長。​和歌山県立紀伊風土記の丘学芸員(民俗担当)、​東北学院大学文学部歴史学科教授(同大学博物館学芸員兼任)を経て、​2019年より現職。​博士(文学)。​専門は民俗学、​博物館学。​

監修に武蔵野美術大学 美術館・図書館編『民具これなーんだ?―民俗学者・宮本常一が美術大学に遺した民具コレクション』(美術出版社、​2026年)。​近著に『民俗学 パブリック編―みずから学び、​実践する』(武蔵野美術大学出版局、​2025年)、​『民俗学 フォークロア編―過去と向き合い、​表現する』(同、​2022年)、​『民俗学 ヴァナキュラー編―人と出会い、​問いを立てる』(同、​2021年)ほかがある。​