「父のことが書かれてまして、嬉しくてお電話いたしました!」
「『帝国美術』を読む」シリーズの(2)として20
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代表作のひとつ「箱根の秋」
その前に、見ておきたい作品があった。お電話の折に磯部和子さんから、横浜のシルク博物館の常設展示室内にパブリック・コレクションとなった磯部陽の作品があると伺ったのである。作品名は〈箱根の秋〉、絹地にろうけつ染の技法を駆使した、いわゆる “染彩画” の大作である。同館の記録によると、シルク博物館が銀座の高級服地専門店で無地の紬を購入し、その紬布を支給して染めてもらったという。
同館の沿革によれば、開館

望郷の絵画作品と会津の郷土玩具
磯部和子さんのご自宅を訪ねると、玄関には茨城県商工信用組合(現・茨城県信用組合)カレンダーのために磯部陽が制作した染彩画が飾られており、さらに大切にされている形見分けの作品やスケッチなど関連資料を見せていただいた。
磯部陽は、
本学の卒業生の「学生原簿」に磯部陽の名前を見つけることができた。それによると「修

学生時代に磯部陽が寄稿した『学友会誌』第3号「郷土玩具」の64頁には、故郷の農村で「モンペ姿の農夫達一家の⻨踏みと只無邪気に遊びまはつてゐる子供等」に「素朴なそして高雅な生活」を見出して感動し、近くの商店に飾られていた「古ぼけた真赤な玩具」を見つけてこの日の追憶のためにと買い求めたと記されている。
和子さんは、小さな起き上がり小法師と、赤い練物の人形を父の形見としている。前掲の磯部陽が寄稿した「郷土玩具」には、

帝国美術学校の染色教員人事をめぐる騒動
磯部陽は1974(昭和
帝国美術学校創始者の一人である金原省吾の日誌を纏めた「学校日誌」(金原省吾著『武蔵野美術大学 大学史史料集 第一集』、武蔵野美術大学大学史史料委員会編、
帝国美術学校 本科 工芸図案科で染色・刺繍を教えていた渋江終吉が、1933(昭和8)年9月
1933(昭和8)年9月30日
「渋江氏の告別式にゆく。図案科生そこにて万端取行ひくれ居る。」
後任人事はすぐに動き出した。金原と北昤吉、杉浦非水でまず話し合い、最初の候補となったのは武樋貞治であった。
1933(昭和8)年10月2日
「渋江氏後任としては武樋貞治君が良いと思ふ。上野美術学校出で、新井君より二年位上級にて、渋江氏を助けて染色刺繍をし、広川氏の弟子也とのこと。」
新井君は助手の新井三男、広川氏は東京美術学校図案科でろうけつ染めを教えていた広川松五郎であろう。当時、図案工芸科の藤井達吉があまり出校しないことが問題となっていたため、金原は藤井を訪問したことが記されているが、「学校日誌」には藤井から後任人事について受けたアドバイスとして「武樋君は知ってゐるが、広川氏すぎて不可。山形駒太郎氏よしといふ。」(同日)と書いている。
さらに、
その翌日、今度は後任人事に対して学生が反発し、名取堯に直談判するという騒動となる。
1933(昭和8)年10月3日
「朝早く名取氏くる。昨夜図・五の佐藤基君来て、新井君が武樋君を推挙せるものにて、渋江氏の後任に確定すると新井君いひ(杉浦氏はこの人をよく知らず)しも、一緒にやりてよく知ってゐるも、技術は朱華会員におとり、染料のことなどは宮永(図、四)におとる。山形氏を望むといひし由を伝ふ。」
候補者の武樋貞治の実力は、学生の宮永、学生団体の「朱華(はねず)染色刺繍研究会」のメンバーにも劣るのだという物言いは、さすがに誇張が入っているであろうが、断固反対する学生の怒りから、当時の帝美生の情熱的な振る舞いに驚かされる。直談判を受けた名取も困惑したであろう。
帝国美術学校の校長の北昤吉としては、助手の新井三男が人事のことを学生に漏らし、学生の反対運動につながった今回の騒動を問題視し、金原が新井に事情聴取をすることとなった。
1933(昭和8)年10月9日
「事情はかうらしい。通夜の夜、佐藤、宮永、磯部、岩渕がゐて、広川氏に座談的に後任のことを相談した。そしたら武樋君が助手位によいかと思ふといふことで、それを杉浦さんに話してみてくれといふ程度のことで、新井君はその間何も策動してゐないといふことである。」
急死した渋江終吉の通夜で、参列した東京美術学校の広川松五郎と “座談的” な会話の輪に、助手の新井や図案科の学生たちもおり、磯部陽も同席していたのである。
新井を通じて杉浦に、武樋を助手として推薦したらどうかというのが、その真相だったようであるが、その後助手候補だったはずの武樋貞治が講師候補となったことから、学生の代表として佐藤基が直接名取堯を訪ねて抗議したのであった。
「学校日誌」によれば、最終的に渋江の後任は
1933(昭和8)年10月 16日
「校長の意向もありて、今は渋江氏後任のみを考ふ。これには杉浦氏の説にて木村和一氏とし、木村氏には杉浦氏うけほふ。」
候補に上がった武樋貞治、山形駒太郎の両方を取り下げて、それまで名前の上がっていなかった木村和一で決定するまでの経緯は、
帝国美術学校から多摩帝国美術学校へ
帝国美術学校で同盟休講事件が起こり、学校が分裂した年に磯部陽は帝国美術学校を卒業した。磯部が慕った木村和一は1935(昭和
今回の記事作成にあたり、多摩美術大学が1952(昭和
情勢が落ち着いてくると、多摩造形芸術専門学校として再スタートした美術学校で、学校事務も行いながら学校内に住み込みで染色を教えたというが、「履歴書」では1950(昭和
当時、同大学の工芸図案科には、杉浦非水をはじめ、グラフィックデザインの先駆者のひとりである山名文夫、舞台美術家で「考現学」の活動で知られる吉田謙吉、建築家の今井兼次、民藝運動に参加した芹沢銈介、そして磯部が慕った木村和一などそうそうたる面々が名を連ねていた。そうしたなかで、磯部陽はとくに当時の杉浦非水理事長から、作家として自立していく上で、直接の薫陶を受け、作品に非水への敬意を込めて「翠」の銘を入れることもあった。
染彩画家として独自な表現へ
戦後から高度経済成長期へと時代が移るなかで、磯部一家は上野毛から溝の口の寮へ、そして稽古に来ていた弟子たちの計らいで横浜市に移り、拠点を神奈川県の反町(たんまち)の工房を置くこととなった。この頃には大作を依頼されるようになるとともに、ろうけつ染めを教えながら、和紙にろうけつ染めで制作したクリスマスカードやポストカードなどを輸出向けに制作するなど、仕事の幅を広げていった。

ろうけつ染めには、一般的には蝋が冷めにくいチャンチンポットを用いて線を引くが、磯部陽は筆のみで巧みに細い線を引く。それが独自の絵画的な作品を成立させており、帝国美術学校で学んだ絵画や図案の基礎が、ろうけつ染め技法による独自な染彩画に活かされている。
晩年は、戸板女子短期大学でもろうけつ染め技法を教えつつ、1974(昭和


100年前の帝美生、それぞれの人生
磯部陽は帝国美術学校2期生のひとりであったが、同盟休講事件を契機に学校が分裂すると、心から慕っていた杉浦非水や染色の木村和一について多摩帝国美術学校へ移り、のちに教員となった。大学を離れた後は、作家としてさまざまな制作に取り組み、
学校史という大きな流れを描き出していく過程では、
卒業生一人ひとりの人生と制作の営みに対する想像力を大切にしながら、今後も1
















