西洋のタイポグラフィの潮流
研究室での議論から始まったエル・リシツキー註1研究の成果として、
20 02年9月に「本の構成者 エル・リシツキー」展を開催されました。その経緯を教えてください。
- 寺山
僕は学生時代から、ロシア構成主義を代表するグラフィックデザイナー、ブックデザイナーとしてのエル・リシツキーに影響を受けていましたが、彼のことを調べたりしているうちに、彼のなした仕事がタイポグラフィやブックデザインに限定されないことを知ります。プロウンと名付けられた絵画のみならず、建築やディスプレイ空間、舞台美術などまでを含むトータルな造形思想と実践に衝撃を受けたのです。私の学生時代にはムサビの学科がそうであるように、すでに世の中は分業・専門化された時代でしたから、なおさら新鮮に感じたのです。しかし自分がデザイン史に関わるというようなことは考えていませんでした。そういうことは専門家がやってくれるだろうと。だけど当時は意外と、グラフィックデザインやタイポグラフィに関する歴史研究の専門家がいなかったんですよね。
数少ない専門家のあいだでは、リシツキーは親交の深かったバウハウスの教授であるラースロー・モホイ゠ナジ註2から影響を受けたというのが通説のようでした。でも僕にはそれは明らかに違うのではないかという実感があったのです。例えば同じ時期にデザインされたバウハウス叢書のモホイ゠ナジによるタイポグラフィ空間と、リシツキーによる『二つの正方形の物語』が成した軽やかで大胆な空間を見れば、そこには明白な違いを認めることができます。モホイ゠ナジがダメだと言いたいのではありません。僕は理論家としての彼の『ザニューヴィジョン』もとても尊敬しています。ただ当時のデザイン史が2人の決定的な違いを適切に言語化していなかったことに強い違和感があったのです。


Dlia golosa, El Lissitzky , 1923
- 新島
僕はブラッドベリー・トンプソンからタイポグラフィの巨匠、ヤン・チヒョルト註3を知るわけですが、チヒョルトはリシツキーを敬愛していました。リシツキーのすごさって、宇宙の果てまで飛んでいけるほど広がりを持つ “空間感” なんです。でもチヒョルトがリシツキーの影響を受けてつくったものは、1 mか2 mぐらいの空間感つまり手で触れることができる、生活している空間感なんです。そしてこの空間感こそがチヒョルトの奥深さを象徴しています。
寺さんは、リシツキーの空間感を研究していました。その一環として、寺さんからリシツキーとチヒョルトの関係について書いてくれませんかと話があって。僕はタイポグラフィの専門誌でチヒョルトがリシツキーについて書いた記事を読んでいたこともあったので、
「リシツキーとチヒョルト」というタイトルで寄稿しました。

そうした前提があって、さらなるブックデザインやタイポグラフィの研究として取り組んだのが20
13年の「タイポグラフィ 2つの潮流」展ですね。
- 寺山
はい。この展覧会は、19世紀末から20世紀後半にかけて欧米で出版された書物などを集めて、ウイリアム・モリスなどのプライベー
ト・プレス以降の英米を中心としたいわゆる「伝統様式のタイポグラフィ」とダダ、ロシア構成主義やバウハウスを発端とするモダニズム系統の「国際様式のタイポグラフィ」という、従来は相反するものと見られてきた2つの流れを同時に俯瞰することを試みたものです。 この展覧会の構成の発想のもとになったのは、先にリシツキー展におけるタイポグラフィ論争について僕が提出した疑問に対して、勝井先生と新島さんから「一番良い方法は実物を並べることだよ」というシンプルなアドバイスを受けたことの延長にあったように思います。
そのために、それぞれの潮流における代表的、画期的と思われる書物ごとに年代順に並べてみることにしました。時間軸と関係性を整理し、年表の形に布置しました。

- 新島
それぞれの書物のタイポグラフィは「R」の文字で表しています。大きな違いは、伝統様式はセリフ(文字のストロークの端にあるひげのような飾り)があり、国際様式はセリフがない点です。
- 寺山
20世紀のデザイン界においてこの2つの対立は激しいもので、現代の人には想像がつかないぐらいの論争があったといいます。
19
90年 代、新島さんの帰国もきっかけの1つになり、この2つの潮流についての考え方が日本に持ち込まれ理解され始めたと思います。先のリシツキーやチヒョルトに加えて、エミー ル・ ルー ダー、ヨゼフ・ミュー ラー゠ブロックマン、マックス・ビル、エリック・ギル、スタンリー・モリソンなどなど、それらの展開と対立が起こったのが20世紀だったので、じゃあ21世紀になったいま、2つの潮流をもう一度見つめ直し、それがなんだったのかを語れるのは僕らだよねと、 「タイポグラフィ 2つの潮流」展を企画したんですよね。
- 新島
そう。会場で本をずらりと並べたときは気持ちよかったね。
- 寺山
うん、あれは壮観でしたよね。

日本のタイポグラフィの歴史を捉え直す
「タイポグラフィ 2つの潮流」展からはどのような成果が得られましたか?
- 寺山
本当にさまざまな発見がありましたが、一番の収穫は、逆説的に聞こえるかもしれませんが、この展覧会をきっかけにより強く日本の伝統的なタイポグラフィについて考えるようになったことです。日本美術史の先生から「日本では江戸時代から、言葉で遊び、文字を身にまとい、空間的に配置するなんてことは当たり前のように行われていた」というような話を聞いて強く考えさせられたのです。僕たちはずっと金属活字から始まるヨーロッパのタイポグラフィを研究対象にしていて、いうなれば “金属アタマ” だったから、日本の書の文化やタイポグラフィに目が向いていなかった。書物つまり紙の上での現象にのみとらわれる傾向があった。
- 新島
この展覧会を開催することで、どちらの潮流にもそれぞれの美が流れており、その造形美の源のコントラストのつくり方に対しては、どちらの流れも私には十分に許容できるものだと確信することができた。また私の師であるポー
ル・ランドは、この展覧会で扱った「シンメトリー、アンシンメトリーのタイポグラフィ」の造形に対しては、かなり以前になりますが「そこにそれぞれの美があるかどうかだろう、だめなものはどちらもだめだ」と語っていた。 シンメトリー、アンシンメトリーの上質なたくさんの書物を手に取りながら長い間のこだわりが払拭できたことで、もう一度、自分たちの足下を見直さなければという思いが強くなってきた。
それと、僕のなかでもう1つきっかけがあります。経堂に「茶房 李白」という喫茶店がありました。自宅と仕事場の間にあった店で、なんともいえない詫びた佇まいの店でした。店内には李朝(朝鮮王朝)時代の器や壺などの高価な骨董品が置かれていて、なんと触らせてくれたんです。その店の老店主は、李朝を何も知らずに、よく来る客にただただ黙って触らせてくれていた。
「李 白」に通ううちに、“金属アタマ” だったはずの僕が東洋のものというか「良い加減な」美しさにだんだん惹かれるようになっていった。ただ黙って見させてくれたこと、これは後になって民藝運動を牽引した柳宗悦の「直 観」という言葉につながりますが。そして金属アタマのなかに、この「良い加減の美」は何の抵抗もなく同居していくんです。

- 寺山
僕は京都での体験も大きかったですね。普段は非公開である裏千家の今日庵という茶室を見学できることになり、勝井先生と、僕と、院生含めて6名ほどで訪れる機会がありました。そこで発見したのは、当時新しいデザインの潮流として「インタラクション」だの「サイバネティクス」だのと語られていたけど、いやいや、日本の先人はそんなこと自明のものとして扱ってきたのではないか。すでにインタラクティブじゃないかと。一連の流れのなかで茶室の光量をコントロールし、軸を変え、途中で花を生けるとかね。
本当の美というのは、もの単体に実在するのではなくて、人や物との流動、関係性のなかにあるんだというようなことを、日本では数百年前から実践していた。それをいまさら、金属アタマでインタラクティブだとか語っていることに、疑問が湧いてきました。日本には古くから独自の美意識があるのに、戦後からでしょうか、僕ら教員も学生もそれに正面から向き合ってこなかったのではないか。日本と西洋を分けるそんなフィルターが、大学の教育のなかでかなりかかっていたのではないかと気づいたんです。
私の学生時代は特にデザイン史って結局、イギリスの権威ある人が書いた本を日本人が翻訳して、それを教科書にしている時代が長く続いていた。本当はデザイン史のなかに日本美術の歴史も含まれているはずなのに、授業では触れられることが少なかった。せいぜい浮世絵がアールヌー
ボーに影響を与えた程度にしか捉えられていないわけです。それは西洋目線のデザイン史であり、つまり日本人は、自分たちの歴史を外国人の目を通して見ているということ。僕たちは、その視点を取り戻すために、日本のタイポグラフィやブックデザインについてもう一度捉え直す必要があったのです。

ヨーロッパと比較するからこそ語れる日本の美
おふたりは日本のタイポグラフィを捉え直すために、
20 12年に日本における近現代の優れたブックデザインを通覧する「近現代のブックデザイン考 I―書物にとっての美」展を企画されました。
- 寺山
そうですね。日本のタイポグラフィについては、定年退職されていた勝井三雄先生ともしょっちゅう話すようになっていました。日本のタイポグラフィのデザインはどうして戦前と戦後で断絶されているのかと問いかけたことがあり、それに対して勝井先生は「いや、戦後はそれどころじゃなかったんだよ」とおっしゃっていたのが印象深い。
19 31年生まれの勝井先生は戦後のなにもないなかで大学でデザインを学び、その後、高度経済成長期に乗って東京オリンピック(19 64年) や日本万国博覧会(大阪万博、19 が開催されて……という流れのなかで、必死で日本のデザインを担ってきた存在です。だからこそ、日本のタイポグラフィの戦前の歴史については、自分がこれから探究すべき領域ではないと思ったのかもしれない。そこで僕たちが研究を進めることにしました。ちょうど新しい美術館·図書館ができたのを機に、それまで眠っていた大量の戦前の書籍との遭遇もありました。70年)
- 新島
まず図書館の金原服部文庫や貴重書庫からは、装丁や本文デザイン、造本が良いものを3
00冊ほどすぐに選び出すことができた。日本の書物の素晴らしさに感動すら覚えたほどです。たとえば19 18年発行の『粧蝶集』の表紙や見返しは木版印刷で摺られていて、表紙は漆の蝶々に金粉がほどこされていたり、箱と本体とでデザインの表情が異なっていたりします。それまで見てきた西洋のものとはまったく違う美が表現されていて、これは一体、どういうふうに理解したらいいんだろうと感じました。 「やわらかい」のです。

- 寺山
それまでは、デザインの視点からそれらがいかに優れているかを具体的に語れる言葉が少なかったのかもしれません。阿吽でしか理解できないものを語る必要がそもそもあるのかと。でも、僕らはヨーロッパのタイポグラフィの美学に影響を受けざるを得なかったのですが、西洋との比較を通して、日本の美には独特の優しさや、やわらかさがあることを具体的に語ることができたようにも思います。
- 新島
書庫から持ってきた本を寺さんと2人で見て、ワクワクが止まらなかった。古書マニアにとってはたまらない本ばかりです。こんな宝物が長いこと眠っていたんだから、まさに鉱脈を掘り当てた感覚だった。そのなかには、優れた図案の視覚表現や、多色刷り木版印刷の最盛期とされる明治期のデザインなど、たくさんの衝撃がありました。そうするうちに行き着いたのは「こういうものが明治期に突然生まれたわけがない。じゃあ、それより前にはどういう流れがあったのか」と我々の深掘りが始まります。
木活字、木版印刷ならではのしなやかな美と“字 力 ”
「近現代のブックデザイン考 I」で扱った時代よりもさらにさかのぼり、近世の木版印刷による刊本を造形的視点から再見したのが、造形研究センターのプロジェクト「日本近世における文字印刷文化の総合的研究」でした。
その研究成果を発表したのが、20
18年の「和語表記による和様刊本の源流」展ですね。
- 新島
そうですね。明治期以前の日本でつくられていた、木版印刷の書物をきちんと見てみようと。日本の造本デザインの源流域を目指す旅です。
そのときの展示物のなかに、
『三帖和讃』という浄土真宗の版本の1つ、城端別院善徳寺所蔵の天文版『三帖色紙和讃』があります。この書物は、日本においてのグーテンベルクの『42行聖書』に匹敵するぐらいの象徴的な価値のある書物だと私は考えています。民藝運動の柳宗悦によって見出された書物です。そしてこの色紙和讃には元本があります。この元本となった金沢市の本泉寺に伝わる文明版『三帖和讃』こそが日本の源流域の書物といっていいと思います。寺山さんと初めて天文版の『三帖色紙和讃』の実物を見、触れたときには、手が震えましたね。浄土が見えてくるようだと。整版本です。あるタイポグラフィの国際会議で出会った欧文のタイポグラフィの専門家にこの本の話を始めたところ、すぐに出た質問が「活字印刷なのか」でした。整版本だと答えるとすぐに興味を失ったようでした。金属アタマだとその書物の価値判断は、出版意図や内容よりも印刷形式が最優先事項となります。悲しいことです。 近現代のタイプフェイスデザインでは合理的に文字をつくることが求められるので、デザイナーの手の感覚はノイズとして削ぎ落とされるんです。でも初期の『三帖和讃』ではノイズが残され、それこそが字の力、“
字 力 ”を生んでいる。

- 寺山
新島さんが探し当てた善徳寺所蔵の『三帖色紙和讃』
は、その時代のほかの和讃とは少し違っていて、テキストは同じですがその装飾にはもっと昔の、平安時代以来の美意識みたいなものもにじみ出ていて特別でした。
- 新島
この本は文字がすごく大きいんですよ。なぜ大きいかというと、薄暗いお堂のなかで朗読するからです。それに、部分的に1字下げを使うことで、お坊さんが読むパートと信徒の人たちが読むパートを区別している。そして正確に毎回読むために和讃を記憶しない。さらに研究者によると、この本が、日本語で初めて読点を使わず、文の区切りの部分にスペースを入れた例ではないかといわれているそうです。どれも、市井の人たちが読みやすいように、親鸞の言葉を正しく伝えるための工夫です。とくに『三帖色紙和讃』は象徴的でありながらそこにデザインの原点をも見ることができる。聖書は牧師が読んで聞かせるけれど、こちらは信徒たちが自ら朗読する。日本の源流域の書物は最初から本として成立していた。
- 寺山
安土時代に浄土真宗のお寺が当時の大名に張り合うぐらいの権力を持ったのは、この書物があったからですよね。だから、
グーテンベルクの聖書によって宗教改革が起こりプロテスタントが生まれたのと同じように、 『三帖和讃』によって日本の宗教や社会構造になにが起こったのかみたいな、そういうことは従来のタイポグラフィの授業やデザインの授業では誰も教えてくれなかったことです。さらにほぼ同時期に日本にはキリシタン版を通してグーテンベルク以降の金属活字と、朝鮮半島からは銅活字が入ってくる劇的な時代でもありました。
- 新島
『三帖和讃』は改版されていくうちに文字が正方形っぽくなっていきます。正方形化される際に字力は削られて、当初の魅力はなくなっていく。でも同時に、合理的な紙面になっていくんです。ここは矛盾していて、どちらを優先させるべきなのかは考える余地があり興味深いところです。
それからもう1つ、古活字版の『花伝書』という本を展示したのですが、これは、チヒョルトも驚くぐらいの良いできです。特徴的なのがひらがなで、1文字ずつの全角の活字だけではなく、複数の文字がセットになった連続活字を用いて、手書きに近いニュアンスを再現しています。そうして、欧文の “ホワイトリバー” のようなことが起こらないように、字間のスペースをコントロールしている。行頭の処理や同一サイズの少し大きめの木活字で組まれたこの本は、日本語タイポグラフィの良い見本となります。
「日本近世における文字印刷文化の総合的研究」では、古活字版『三井寺』の復元プロジェクトにも取り組まれました。
- 寺山
慶長期(1596–16
15年) に刊行された嵯峨本の謡本(通称「光悦謡本」)は、おおよそ100冊が1セットで、膨大な数の木活字を使って出版された書物です。にもかかわらず現在、活字が1つも残っていないし、文字を誰が設計したのか、どのように摺ったのかもわからないと言われています。これは大きな謎ですよね。昔から多くの書誌学者をはじめとする研究がありました。そこで僕らは、 「光悦謡本」のなかの1冊である上製本『三井寺』をもとに、自分たちで復元してみようと考えたのです。先行研究ではつくられたものの細部を比較、分析し推測が行われていました。ならば私たちはその結果を参考にしながらも、実際自分たちの手でつくってみることを通して新しい知見を得ることができるのではと。 誤解されやすいのですが原本を綺麗に写真に撮って再現したような「復
刻」ではなく、対象の本がどのような具体的プロセスでつくられたのかを探るために、不明な部分は仮説を検証しながら自分たちの手でつくってみる。それが、書誌学者ではない、デザイナーである僕らだからこそできる造形的視点からのアプローチだと考えたのです。京都の職人の協力を得て、肉筆版下にもとづく文字原盤の制作、木活字の高さの確定や彫り方から、料紙制作、組版、印刷、製本と、嵯峨本謡本の造本プロセスを丹念に辿りながら、技術的側面の再現と検証を進めました。
- 新島
嵯峨本謡本の上製本ですが、私は元々そこで使われている文字形象には余り良い印象を持っていませんでした。しかし京都光悦寺で拝見した謡本の写本の文字は美しかった。なぜ写本の文字と印刷された文字の間にこれほどの美の落差があるのかと。その造形的な疑問からですね。しかし嵯峨本謡本の表紙の美しさは特別です。この表紙の摺りでは、ムラを生じさせている。そこに日本の美の典型の1つ「良い加減の美」が表れています。柳宗悦のいう他力本願による美か、あるいは仕組まれたムラか。どちらにしても金属と機械では生じ得ない、木と和紙と雲母と人の手によって生じた技の形ですね。どのようにしてこのムラが生じさせられるのか、知りたかったですね。ムラが出ないように刷りあげる西洋の印刷術とは、まるで異なる美意識ですね。徳川家康が銅活字をひろめてくれなくて良かった。
- 寺山
嵯峨本謡本は20
18年の展覧会のときには完全な復元には至らず、完成にはさらに5年がかかりました。それを披露したのが20 24年に開催した「木活字の美――慶長期木版印刷術の粋・ 「嵯峨本」復元プロジェクト」展 です。この展覧会をもって、一応本研究は結実した形となりました。
- 新島
私たちの机の上に印刷工房が乗ったDTP黎明期の変革に比べ、現在のデジタル技術の変革はとてつもなく大きく、どのような変化をもたらすのか想像するのも難しい。今回の研究でなんとか日本の造本やタイポグラフィの源流域を突き止めることができた。欧文のタイポグラファーやブックデザイナーがインキュナビュラ期から多くの示唆を得られたように、
我々の研究による源流域が戻るべき場所として、これからの日本のタイポグラファーやブックデザイナーのインキュナビュラとして認識されると良いのですが。 また僕個人としては、ムサビに着任してから取り組んだ一連の研究が、アルヴィン・アイゼンマン註4から「西洋のデザインと日本のデザイン、あるいはタイポグラフィを比較検証しろ」という一生もののテーマをもらいそして完結させることができた。西洋の金属活字から、日本の木活字や版木へ。“金属アタマ” だからこそできた研究が、造形デザインへの眼差しを変えてくれた。面白かった。そしてデザイン教育と研究の醍醐味は、このあたりにあるなと確信しています。















