19 60年 、吉祥寺校で誕生
武蔵野美術大学ワンダー フォー ゲル部(MAWV、 以下ムサビワンゲル) は、 武蔵野美術学校時代の1960(昭和35) 年に吉祥寺校(東京都武蔵野市) で創部された。 1961(昭和36) 年に鷹の台校(東京都小平市) が開設され、 1962(昭和37) 年には武蔵野美術大学が設置されている。 鷹の台校が開設された年に吉祥寺校とは別に多くの新しいクラブが誕生する。 ムサビワンゲル1代目部員は、 この年から本格的な活動を始めている。 創部から数年して三淵力(1代、 芸デ) によって書かれた「ワ ンダー フォー ゲル部小史」 の中に「初 代チー フリー ダー 久志君(宗昭、 1代、 工デ) の提案により 、同好の士が集まって発足したのである」 との記載がある。
1963(昭和38) 年に機関誌『ち んたら』 の第1号が発刊され、 その巻頭で松本八郎(2代、 商デ) が「発 刊にあたって」 を、 三淵力が「2 代目チー フのことば」 と前出の「ワ ンダー フォー ゲル部小史」 を書いている。 松本八郎は分校(吉祥寺校) 責任者で、 本校(鷹の台校) に移った部員との連絡に当たっていた。 現在の名簿には1代目(19 61年 ) 部員として14名 が記載されている。 翌年の部員募集では60数名が入部したと記録があるが 、名簿には11名 のみの記載がある。
ムサビワンゲルの活動にはテントその他の装備が必要だが 、創部当初それらを購入する資金がなかった。 部員はみな、 意欲はあっても金がなかったのである。 その状況を知ったある部員の父親が 、装備購入費の大金を厚意で貸してくれた。 こうして始まったムサビワンゲルは、 今年で創部66年 になる。
ムサビワンゲル初の屋久島春合宿
今年の6月8日、 久しぶりにムサビに行き、 武蔵野美術大学出版局を訪れた。 出版局の入り口は美術館の正面左側にある。 このあたりは私が学生の頃に宮本常一教授の研究室があった場所だったな、 と思い出した。 美術館では翌週から「民 俗学者・ 宮本常一が美術大学に遺した民具コレクション」 展が開かれる時期でもあった。
私は1968(昭和43) 年に造形学部美術学科油絵専攻に入学し、 ムサビワンゲルに入部した。 翌1969(昭和44) 年3月ムサビワンゲル初の屋久島春合宿が計画され、 その準備の段階で宮本常一教授に話を聞きにいった。 当時は屋久島のガイドブックや情報がほとんどなかった。 そこで、 民俗学を教えていた宮本先生に屋久島の話を聞こうと、 何人かの部員で今の出版局のあたりにあった先生の研究室を訪れたのである。 先生の著書『民 俗学の旅』 の中に屋久島に滞在した記述がある。 きっと有益な情報が得られると思った。 正直いって、 そのときに先生が聞かせてくれた話の内容はほとんど覚えていないのだが 、おそらく屋久島の人々 の生活や風習・ 文化などの話をしてくれたのだろう。 穏やかな笑顔で話してくれた先生の表情が印象に残っている。
その頃のムサビワンゲルは、 年間の行事として強化合宿、 月例山行、 夏合宿、 山小屋合宿、 スキー 合宿、 春合宿などがあり 、それらに向けて週3日放課後にランニングや重い荷物を背負って階段の昇り降りをするなどのトレー ニングが行われた。 私と一緒に入部した同級生は2週間で音を上げて退部してしまった。 今思い返しても、 かなりハー ドな運動部だった。 当時の組織は、 チー フリー ダー、 サブリー ダー、 マネジャー のほか装備、 食料、 会計、 気象、 衛生、 記録、 出版、 トレー ニングなどに分かれていた。
屋久島春合宿は19 69年 3月18日 から29日 まで、 女性部員7名、 男性部員10名 の総勢17名 で行われた。 今から57年 前のことだ。 屋久島には九州最高峰の宮之浦岳(1,936 m) があり 、また1966(昭和41) 年に発見され、 当時、 推定樹齢7,000年 と話題になっていた縄文杉がある。 縄文杉が発見されてからまだ3年。 屋久杉が注目を集める中、 その価値があらためて見直され保護活動が盛んになり始めた頃だった。
今回の執筆にあたりその頃のことを思い返してみたが 、私の記憶はほとんど曖昧。 そこで今でも交流している当時のメンバー に聞いてみたが 、彼らの記憶も私と同様で定かではない。 何か当時の記録がないかと探したところ、 ムサビワンゲルの機関誌『ち んたら』 が山小屋(後述) に保管されているのを見つけた。 その中に屋久島春合宿の記録があった。 読んでみると私たちの記憶とはかなり違っていたが 、その記録を参考にしつつ、 ムサビワンゲルが初めて実施した屋久島春合宿を振り返ってみた。
屋久島春合宿の日程
1日目
10時 41分 、東京発の急行「霧 島」 に乗車。
2日目
12時 55分 、西鹿児島に着く。 祇園州公園でテント泊。
3日目
屋久島丸に乗船〔fig.1〕。 当時はまだフェリー は就航しておらず 、屋久島丸は中型の客船だった。 船は屋久島安房港に着く予定だったが 、当日は波が高く港に接岸することができず 、宮之浦港に着いた(7時30分 乗船、 13時 10分 下船) 。宮之浦から安房までバスで移動し、 安房中学校校庭でテント泊。 夜、 強風でテントのポー ルが折れる。
4日目
屋久杉を運搬したトロッコの軌道を歩き小杉谷を目指した〔fig.2〕。 途中でトロッコ(杉は積んでいない) と出会う。 小杉谷に到着したが幕営地がなく、 小杉谷山荘に泊ることになる。
5日目
早朝出発、 軌道上歩きが終わり 、急な山道を三代杉、 ウィルソン株、 大王杉、 縄文杉〔fig.3〕を経て、 宮之浦岳を目指した。 しかし3月下旬にもかかわらず 、途中から霧氷の中を進んだ。 小高塚(1,544 m) を過ぎしばらく登ったが 、頂上目前で退却。 不満の部員もいた。 下山途中で縄文杉、 大王杉、 ウィルソン株などに再び寄り 、小杉谷山荘に戻り宿泊。 当時は、 いずれの屋久杉も周囲の立ち入り制限はなく、 自由にすぐ近くで見たり 、触ることもできた。
6日目
宮の浦に下山しテント泊。
7日目
海岸線沿いに歩き、 志戸子のガジュマル園を経て一湊へ。 テント泊。 地元の方からアジとニンニクを大量にいただく。
8日目
永田を目指し海岸線を歩くが途中から大雨になり 、永田公民館に宿泊。 公民館は急な宿泊要請にもかかわらず親切に対応してくれた。
9日目
海岸線沿いに大川の滝へ。 テント泊。
10日 目
栗生まで歩き、 そこからバスで尾之間へ。 テント泊。 温泉で垢を落とす 。
11日 目
尾之間からバスで安房港に行く。 波の影響のため港から艀(はしけ) で沖合の屋久島丸に乗り移り 、鹿児島港へ(14時 35分 出港、 20時 10分 鹿児島港着) 。大衆食堂でとんかつ定食+α、 ビー ルで乾杯。 公民館泊。
12日 目
8時30分 、参加部員全員で「ム サビワンゲル、 フャイト!」 とコー ルを行い解散。
〔fig.1〕屋久島へ向かう屋久島丸船上の様子。 2列目、 左端が永井先生(19 69年 ) 画像提供: 井下田潤
〔fig.2〕屋久杉を運搬したトロッコの軌道を歩き小杉谷を目指す(19 69年 ) 画像提供: 井下田潤
〔fig.3〕縄文杉の前で記念撮影。 左から4人目が永井先生(19 69年 )
この合宿では宮之浦岳に登頂できなかったため、 翌々 年、 私は部員と友人数名で宮之浦岳に登頂し、 避難小屋に一泊して一湊に下るルー トを歩いた。 現在の観光地図では、 そのルー トは途切れた状態となっている。 1993(平成5) 年に、 屋久島が白神山地とともに世界自然遺産に登録された後は立ち入り禁止区域が設けられ、 歩くことのできる範囲が制限されたのだろう。
機関誌『ち んたら』
『ち んたら』 は1963(昭和38) 年に創刊、 年1回発行された。 内容は強化合宿、 山小屋合宿、 夏合宿、 スキー 合宿、 春合宿山行などの記録のほか 、部員のエッセイやそれぞれの思いなどが掲載され1号から8号まで続き、 以後休刊している。 その後1981(昭和56) 年に復刊1号が出され、 2010(平成22) 年の10号まで続いた。 その10号にはイラストや漫画が満載で誌面は賑やかだが 、編集後記に「最 終回かよ、 チー ン」 の寄せ書きがあるので、 この号で『ち んたら』 は終わっているようだ。
機関誌『ち んたら』 は、 それぞれの時代を反映した部員たちの発言の場にもなっていた。
機関誌『ち んたら』 第6号(19 71年 ) 画像提供: 永井研治
山小屋
ムサビワンゲル史を振り返ると、 1963(昭和38) 年頃から山小屋を建てる計画が立ち上がる。 建設候補地の条件として、 スキー ができ、 東京を夜行で発ち翌日午前中に最寄り駅に着き、 そこから冬でも徒歩4時間圏内、 俗化しておらず 、水に困らない所。 その条件にあう奥日光・ 尾瀬、 谷川・ 水上、 八ヶ岳、 乗鞍を中心に調査、 偵察の結果、 乗鞍山麓の安曇村番所(村有地、 海抜約1,350 m) に決定した。
初代建設委員長・ 谷正克(3代、 芸デ) のもと1965(昭和40) 年から整地作業が始まった。 未開の地に露出する石を掘り出し、 砕き、 運び、 石垣を造った。 部員では手に負えない大岩などは石屋の助けを借りて作業が進められた。 設計は倉本龍彦(4代、 建築) が主に担当した。 基礎工事で土中に埋め込むヒュー ム管(コンクリー ト管) も人力で運び上げられた。 砂利や砂などは背負子やキスリングで運んだという。 大工仕事と屋根は専門の職人の手を借りたが 、そのほかの工事は部員が行った。
こうして、 薪ストー ブを中心とした八角形(15坪) の山小屋が 、1967(昭和42) 年7月に祝宴実施をもって完成した。 建設資金の借金は部員がバイトやダンスパー ティー、 山小屋会員証の発行などで資金集めをした。 私が1年の時の「大 橋節夫とハニー アイランダー ス」 を呼んだダンスパー ティー を思い出す 。ハワイアンの流れる中で、 パー ティー チケットを購入してくれた方々 との和やかな交流だった。 当時の先輩たちは企画力、 行動力があったなとあらためて感服する。
1代目山小屋。 永井先生が入部した年の夏、 作業前の準備体操の様子(19 68年 ) 画像提供: 永井研治
私は8代目の部員だが 、入部した1968(昭和43) 年の夏の山小屋合宿の時は小屋の途中まで水道を引く溝掘りをした。 電気は引かれていない。 建物は完成しても、 まだまだ整備すべきことがたくさんあった。 そして何より 、この時点で、 山小屋会員証(1枚2,000円 ) をあと100枚 売れば完済という額の借金がまだあった。
この1代目の山小屋は解体されるまでの約25年 間、 OBや各代の部員たちが屋根のペンキ塗りや冬用の薪作りを繰り返しながら、 合宿、 登山、 スキー の拠点として使われてきた。 この地域で1988(昭和63) 年に始まったリゾー ト開発で「い がやスキー 場」 建設のため1990(平成2) 年頃に1代目山小屋は解体・ 撤去された。 解体もOBや現役部員たちにより行われた。 解体した建材の一部は、 2代目の山小屋に引き継がれていく。
2代目山小屋(20 16年 ) 画像提供: 齋藤道哉
再建準備期間を経て、 山小屋を新たな代替地(松本市安曇、 市有地、 海抜約1,210 m) に建てることになる。 井下田潤(8代、 建築) の協力のもと、 現役部員、 OBにより設計、 工事のすべてが行われた。 木材の加工はムサビ構内の一部設備も使って行われ、 1991(平成4) 年8月上棟式、 1992(平成5) 年12月 に現OB会会長・ 篠浦憲一(18代、 工デ) 作の薪ストー ブ設置をもって2代目山小屋は完成した。 建設資金はOBの寄付、 維持費は小屋の宿泊料や部費でまかなわれている。
OB会(ムササビ会)
2002(平成14) 年頃には、 現役部員で山小屋を管理し維持するのは困難になってきていた。 山小屋を閉じるという決断をした現役部員が山小屋解体費(当時200万 円) を準備するため、 芸術祭模擬展の売り上げを貯めている、 という情報が42代のチー フリー ダー からOBに伝えられた。 そのような山小屋の現状を知らなかったOBは早急にOB会設立準備委員会(委員長・ 村田眞一、 6代、 建築) を立ち上げ、 2006(平成18) 年にOB会(ムササビ会) を設立、 山小屋の管理と運営の主体は現役部員からOB会に移された。
同年に第1回ムササビ会総会が東京・ 赤坂で開催された。 OB58名 、現役4名の臨席のもと、 三淵力(1代、 芸デ) が初代会長に着任した。
2026(令和8) 年現在、 ムササビ会は会長・ 篠浦憲一(18代、 工デ) 、副会長/事務局・ 齋藤道哉(17代、 基礎デ) を中心に活動し、 総会は初回以来、 毎年開催されている(コロナ流行時の2回はオンラインで実施) 。当初予定の山小屋の解体費用は会費と寄付で確保できたが 、現時点ではすぐ解体するのではなく、 当面は現状を維持しつつ今後のあり方を検討していこうということになっている。
伊豆、 城山から発端丈山への縦走コー スで行われたOB会ハイキングの様子。 左から5人目が永井先生(20 08年 ) 画像提供者: 小澤通男
「ム ササ美20 18」 展DM(20 18年 )
山小屋の新しい展開として、 坂井尚(28代、 日本画) が発起人となり近隣の「乗 鞍すもも荘」 と共同開催のイベント「の りくらアー トDAY」 が2025(令和7) 年から始まった。 アー トをとおして、 山小屋のある地元の皆さんと連携しながら行うイベントである。 20 25年 夏の初回には29名 が参加し、 絵画、 工芸、 イラスト、 彫刻、 インスタレー ション、 写真などが展示され、 地元からの出店もあり賑やかなアー トDAYになった。 2年目の今年は1月に「の りくらアー トDAY in winter」 が開催され、 11月 には乗鞍地区と奈川地区同時開催の「の りくら・ ながわアー トDAY2026秋」 が開催予定である。 地元の皆さんとアー トをとおして交流しながら、 今後の山小屋の維持・ 管理を考えていく機会にもなっている。
「の りくらアー トDAY」 フライヤー (20 25年 )
現在OB会名簿には1代〜62代までの587名 が記載されている。 各代で部の運営、 トレー ニング、 合宿、 山行の仕方に違いはあるが 、20 26年 現在、 ムサビワンゲルは白岩芽生(64代、 芸文) をチー フリー ダー として61代~66代まで、 84名 の部員が活動中である。 アウトドア誌『ラ ンドネ』 とムサビワンゲルが共同でEC(Electronic Commerce、 電子商取引) 商品をつくる企画など、 美大のサー クルならではの活動も行っている。
19 69年 から始まったムサビワンゲルの屋久島春合宿は、 現在も若い世代に引き継がれている。
19 47年 、東京都・ 八王子市に生まれる。 19 72年 、武蔵野美術大学造形学部美術学科油絵専攻卒業。 1988–19 89年 、文化庁派遣芸術家在外研修員としてオランダで研修。 19 83年 「第 14回 版画グラン・ プリ」 賞候補1席、 19 93年 「第 22回 現代日本美術展」、 19 94年 「第 3回ベオグラー ド国際版画ビエンナー レ展」 First Prize、 19 97年 「ポー トランド美術館国際版画展」 買い上げ賞、 20 05年 「現 代版画の潮流展」、 20 08年 「第 1回イスタンブー ル国際版画ビエンナー レ展」、 20 16年 「は じまりは石/Litho: as All Started Kenji Nagai」 など個展やグルー プ展多数。 19 83年 、武蔵野美術大学造形学部油絵学科非常勤講師(–19 88年 、1989–19 94年 、1997–20 00年 、2003–20 06年 ) 。19 95年 、武蔵野美術学園非常勤講師(–20 18年 ) 。20 02年 、武蔵野美術大学造形学部通信教育課程非常勤講師(–20 06年 ) 。20 07年 、同教授(–20 18年 ) 。作品の主な収蔵先としてロサンゼルス・ カウンティー 美術館、 ポー トランド美術館、 国立プー シキン美術館、 ベオグラー ド現代美術館、 町田市立国際版画美術館、 武蔵野美術大学美術館 ・ 図書館など。