「修練」は必要か?

私たちの日常で「絵を学ぶ」というと、​おそらく大半の人々は「上手く描くための技術を学ぶ」ことと解釈するだろう。​実際、​YouTubeなどの動画配信サービスでは、​超絶テクニックで絵を描いたり、​その描き方を指南したりするサイトの人気が高いし、​市井の絵画教室などでも、​技術を習得するための講座がほとんどである。​

わが国ではこのような絵画の学び方が社会通念となっているため、​美術系の高等教育機関である美大や芸大は、​より高いレベルでの技術を習得する場と思われている節がある。​入学試験では実技が課せられ、​事前に予備校や研究所などで技術的な修練を積まなければ合格できないのが現実で、​それに及第した者が学ぶ場であるから、​より高次の技術を学ぶのが美大であると思われるのは当然かもしれない。​

しかし、​現代のアートの概念の発祥地ともいえる西洋の美術学校では、​入学希望者が極めて多いなどの例外を除いては、​入学前の実技試験は行われない。​なぜなら、​学ぶために入学するのに、​入学前に学ぶことは矛盾するからである。​さらに言えば、​入学してからも基礎的なデッサンの修練をするような授業はない。​かつてヨーロッパに留学したことのある知人の経験談であるが、​木炭デッサンをしようとして画材店に木炭を買いに行ったのだが、​売っていなかった。​そこで級友に相談したら、​焚火の燃えカスを示されたという。​

これは笑えない話であるが、​わが国ではどこの絵画教育の現場でも、​最初に課せられるのはデッサンの修練で、​特に木炭デッサンは必須とまで信じられている。​しかし、​西洋では木炭デッサン自体が行われておらず、​画材としての木炭も木炭紙も、​ほぼ日本向けの輸出用として製造されているのが実態なのである。​つまり、​西洋では絵を学ぶために技術的な修練は必ずしも必要ないとしているのだ。​そこで、​なぜ西洋と日本ではこのような違いがあるのか、​少し考察してみたいと思う。​

アルチザンの仕事からアーティストの仕事へ

洋の東西を問わず、​近代以前は絵や彫刻は職人(アルチザン)の仕事であった。​当時の依頼主は専ら教会や寺院、​時の権力者で、​下層階級である職人は作品の内容から様式、​構図に至るまで指定されたものに従わなければならなかった。​そのため、​技術の高さだけが要求されたのである。​

その後、​西洋ではルネサンスが興り、​レオナルド・ダ・ヴィンチに代表されるように、​絵を描くために科学的な知識やそれに基づく表現が取り入れられるようになる。​その結果、​依頼主も表層の技術だけでは満足せず、​その表現に至る知識や教養を重んじるようになっていった。​この頃から、​西洋では絵や彫刻は芸術家(アーティスト)の仕事になっていったと言えるだろう。​

対して日本では、​表現におけるさまざまな革新はあったにせよ、​江戸時代以降も工房の徒弟制度が続き、​絵師は職人のままだった。​その学び方は、​手本となる先達の技術を真似る「臨画」が中心で、​技術の習得が最優先されていたのである。​この教育法は、​大正時代に西洋美術を取り入れるため、​山本鼎(1882–1946)が提唱した「自由画運動」が広がるまで、​学校教育の中でも採用されていた。​そのためか、​西洋文化に慣れ親しんでいる現代でも、​技術優先の考え方が人々の中に遺伝的に残っているのだろう。​

そもそも、​「芸術」の語源である「art」には「人工」という意味があり、​神が創った「自然(nature)」と対立する概念がある。​欧米の大学の学科や科目群に「Arts and Science」があるが、​自然を学ぶ学問が「サイエンス(science)」、​人が作ったものを学ぶ学問が「アート(art)」で、​わが国の自然科学と人文科学に相当する。​つまり、​本来のアートはあくまでも学問で、​職人的な技術であった絵や彫刻の制作は含まれないのである。​そのため、​現在でも美術や音楽の専門家を育成する場は大学ではなく、​アカデミーやインスティチュートのような教育機関で行われている国が多い。​

対話の先にあるもの

絵画に限らず、​芸術作品は人前に出して初めて成立する。​つまり、​芸術とはコミュニケーション・ツールのひとつであり、​作品と鑑賞者の対話で成り立つと言える。​逆に言えば、​作品から何らかの問題提起のようなものが発せられない限り対話は起こらないため、​芸術として成立しないことになる。​その問題提起とは、​視覚芸術である絵画においては見方や感じ方のことで、​そこに至る思想や哲学も含まれる。​これを一般には、​テーマやコンセプトとか、​メッセージという言葉で語られる。​

たとえば、​静物画を描こうとして、​置かれた器物の形や色、​立体感や質感などを誰が見ても「正しく」描くことができたとする。​この場合、​作品から何を感じ取ることができるだろう。​おそらく、​「上手な技術」だけではないだろうか。​もちろん、​超絶テクニックのようなもので描かれていれば、​その技術に感動することもあるかもしれないが、​決して対話は生まれない。​誰が見ても「正しい」と思える見方や感じ方とは、​社会通念そのもので、​いわば当たり前のことである。​当たり前のことについては賛成も反対もないため、​対話は生じないのだ。​端的に言えば、​誰も知らないであろう独自の見方や感じ方が必要なのである。​世界中で最も人気の高い画家のひとりであるゴッホの絵を見て、​感動することはあっても「上手い絵」だと思う者はいないだろう。​つまり、​絵画が芸術に昇華するためには、​学問として問われる思想や哲学、​感覚や感情などの問題が作品に込められる必要があるのだ。​

もちろん、​現代のアートの在り方はさまざまで、​わが国独自の伝統を重んじることが否定されるものではない。​しかし同時に、​アートこそ最もグローバルな言語でもある。​西洋から発生したアートの本質を理解しなければ、​まさに井の中の蛙状態になるだろう。​

商業美術と通信教育

さて、​本題の通信教育による絵画の学びに入ろう。​実際の教育現場では、​絵を描くという行為の指導であるため、​描画材を使いながら適宜にアドバイスができる対面の方が適している。​しかも、​複数の学生がイーゼルを並べて描くことで、​互いの制作を参考にしながら学べる効果もある。​これらの理由から、​絵画教育には対面が絶対に必要で、​通信教育では難しいと思われるのは致し方ない。​

しかし、​かつて米国生まれの絵画の通信教育が人気を博した時代があった。​そのプログラムは、​米国で大衆的な人気を持つ画家でありイラストレーターのノーマン・ロックウエル(1894–1978)らを中心に、​ニューヨーク・イラストレーター協会が母体となって作り上げたもので、​日本には1968年に導入された。​日本側の講師陣には現役で活躍する画家たちが居並び、​一時は国内だけで1万4千人もの受講者がいたそうである。​

戦後の米国の美術界では、​それまでのヨーロッパの伝統的な芸術の価値観を否定し、​大衆文化にこそ価値があるとしたポップアートが台頭していた。​そのため、​いわゆるハイ・アートとロウ・アートの境界が曖昧になっていたのである。​そのせいもあり、​このプログラムはヨーロッパで重視された価値観は持ち込まれず、​むしろ商業美術の需要に合致したものであった。​端的に言えば、​技術を磨くことに徹したプログラムだったのだが、​ただでさえ広大な土地を有する米国では、​美術学校へ通うことが困難な学生は大勢おり、​この通信教育は歓迎されたのである。​

一方わが国では、​このプログラムは「臨画」にも通じる教育法であったため、​受け入れやすかったのかもしれない。​しかも、​当時は高度成長期の真っただ中で、​雑誌や広告の業界ではイラストレーターが引っ張りだこだった。​そのため、​卒業生にはプロとして活躍する者も数多く輩出したそうである。​

しかしその後、​経済が停滞し、​広告の中心がCMにシフトしたり、​雑誌自体が衰退したりする中で需要が激減し、​たとえ卒業しても活動できる場がなくなっていったため、​閉校に追い込まれていった。​

結果的に、​この通信教育のシステムは事業としては失敗に終わったが、​これまで対面でしかできないと思われていた技術指導が通信教育でも可能で、​しかも一定の効果が得られることを証明したのである。​ただし、​その方法論に徹した内容は商業美術の分野には十分条件だったかもしれないが、​思想や哲学、​感覚や感情と言った内面の問題はなおざりにされていたため、​本来のアートを目指す絵画教育としては、​必要条件を満たしているとは言い難いものだった。​

ただ、​この内面の問題とは極めて個人的なものであるため、​指導者が立ち入れるものではない。​その原理から言えば、​たとえ対面であっても不可能になる。​しかも前述したように、​技術は必ずしも必要ないとすれば、​絵画教育そのものが成立しないことになってしまうだろう。​

実際、​美術学校などでの専門教育を受けず、​いわば独学で世界的に活躍した画家を挙げれば枚挙にいとまがない。​さらに言えば、​たとえ通学の美術学校で学んだとしても、​教員が付きっきりで指導することはほとんどないのが実態なのである。​筆者の学生時代の経験でも、​担当の先生はほとんど教室に現れず、​たまに来ると、​むしろ学生の方が邪険にしていた記憶がある。​

絵画における「教育」とは

実は、​絵画教育で最も重視しなければならないのは、​「何を」「どのように」見るか、​という一見シンプルな点にあるのだ。​たとえば、​机上にリンゴがあるとする。​これを描こうとした時、​リンゴの質感に注目する者もいるだろうし、​リンゴの模様や反射する光に反応する者もいるだろう。​場合によっては、​テーブルに注目したり、​周囲の方に関心が向いたりするかもしれない。​さらに言えば、​味や香りという視覚以外の感覚を働かせる者もいるだろう。​

このように、​人それぞれで見ているものも感じているものもさまざまなのだが、​その違いは知識や経験から生まれる。​つまり、​思想や哲学、​感覚や感情という内面が反映されているのだ。​したがって、​「何を」「どのように」見ているかを造形として表現すれば、​芸術としての絵画が成立することになる。​この見方や感じ方は、​それぞれが描きながら獲得していくしかないものなので、​仮に教員が付きっきりで指導すると、​押し付けられた見方や感じ方になってしまうだろう。​過去の筆者の経験は、​むしろ先生の教育的配慮だったのである。​

しかし、​私たちの日常生活では社会通念での見方をしているため、​その通念で描くことが最も正しいと信じている。​先の例で言えば、​リンゴは誰が見ても「リンゴ」に見えるように描くということである。​前述したように、​社会通念の見方や感じ方だけでは芸術は成立しない。​このことは、​現代の絵画では外界の物質的な対象にとどまらず、​抽象的な概念を対象とする場合も含まれる。​そこに、​何らかの問題提起となるような独自性が必要なのであるが、​何をもって独自といえるのか、​初学者にとっては分からないだろう。​そのために指導者がいるのであり、​描き方を教えるためではないのだ。​技術的な上達を求めるなら、​数をこなせば良いだけである。​

したがって、​絵を学ぶためには、​これまでのさまざまな見方や感じ方を知るところからしか始まらない。​知ることによって、​自分自身との共通性や差異を認識もする。​その延長線上に独自の表現が繋がり、​そこに至る内面の問題も浮き上がってくるのである。​つまり、​「学ぶ」ことは「知る」ことなのである。​これは芸術以外の学問でも同じで、​教育の根本原理ともいえるだろう。​そのためには、​適切なプログラムやテキストがあれば通信教育でも十分に可能で、​必ずしも対面でなければならない理由はないのである。​

この方針に則り、​2020年度の通信教育課程の改革に伴う形でカリキュラムを改編した。​基本となる必修科目では、​さまざまな見方や感じ方を知ることを中心に、​造形思考のための科目を新設して、​それぞれの内面問題を追究できるようにした。​一方の技術的な学習は必修からは外し、​それぞれが必要と思える時に必要な技術を選択できるようにしたのである。​このカリキュラムの完成年度で職を辞したが、​途中経過を見る限りはおおむね成功したと自負している。​

さて、​これまで絵画における技術と内面の問題を述べてきたが、​いずれも通信教育でも遜色なく学べることを証明したつもりである。​さらに言えば、​通信教育の長所はいつでもどこでも学べる点にあるし、​入学時に実技試験を課さないムサビの通信教育課程は、​むしろ効果的な教育が期待できるかもしれないのだ。​

しかし、​現実はそれほど単純ではない。​いかに優れたプログラムがあっても、​通信教育は学ぶ環境が孤独であるため、​不安や挫折が生じやすい。​要は、​続ける難しさが付き纏うのである。​その点で言えば、​多くの学生と席を共にして学ぶ通学は、​単に授業内での教育だけではなく、​何気ない日常会話の中で励まし合ったり、​競争心が生まれたりすることで、​学びを継続しやすい環境にある。​大学通信教育設置基準で定められている面接授業は、​直接指導を受けるのが目的なのは言うまでもないが、​このような学生同士のコミュニケーションが得られることに、​むしろ重要な意味があるのだ。​

これまで述べてきたように、​絵画そのものの社会的な概念を変えない限り、​絵を学ぼうとする者は手取り足取りの指導を求めたがるだろうし、​通信教育は不利だという偏見はなくならないかもしれない。​これを諦観するのではなく、​芸術の意義を積極的に発信していくことが、​教育機関全体の責務でもあるだろう。​

参考サイト

三浦明範

みうら・あきのり

1953年生まれ。​東京学芸大学卒業。​画家。​1996–97年、​文化庁派遣芸術家在外研修員としてベルギーに滞在。​2011–24年、​武蔵野美術大学造形学部通信教育課程教授。​春陽会会員、​日本美術家連盟会員。​

主な発表:春陽展、​東京セントラル油絵大賞展、​昭和会展、​安井賞展、​具象絵画ビエンナーレ、​日本の絵画新世代展、​両洋の眼・現代の絵画展、​21世紀への証言展、​21世紀の旗手展、​Maitres D ‘aujourd’ hui、​Lineart、​KunstRAI、​北京ビエンナーレ、​Hedendaags Realisme、​旅展、​The写実展、​リアルのゆくえ展などに出品。​2023年「三浦明範vanitas vanitatum」(武蔵野美術大学美術館・図書館)、​2025年「三浦明範 VERITAS」展(秋田県立近代美術館)のほか個展多数。​

パブリックコレクション:東京学芸大学、​香川短期大学、​武蔵野美術大学、​秋田県立近代美術館、​秋田市立美術館、​平塚市美術館ほか。​

著書に『絵画の材料』2020年、​共著に『造形の基礎』2020年、​『絵画の表現』2021年(いずれも武蔵野美術大学出版局)、​監訳に『色で読み解く美術史』(ケリー・グロヴィアー著、​東京美術、​2026年)がある。​